してしかそれを知らなかった。秩序は彼の信条であって、それだけで彼には充分だった。成年に達し今の職務について以来、彼は自分の宗教のほとんど全部を警察のうちに置いてしまった。そして、少しも皮肉ではなく、最もまじめな意味において、彼は前にわれわれが言ったとおり、人が牧師であるごとく探偵《たんてい》であった。彼は上官として総監ジスケ氏を持っていた。彼はこの日まで、神という他の上官のことをほとんど考えてみなかった。
この神という新しい主長を彼は意外にも感得して、そのために心が乱された。
彼はその思いがけないものに当面して困惑した。彼はその上官に対してはどうしていいかわからなかった。今まで彼が知っていたところでは、部下は常に身をかがむべきものであり、背反し誹謗《ひぼう》し議論してはいけないものであり、あまりに無茶な上官に対しては[#「対しては」は底本では「対しは」]辞表を呈するのほかはなかった。
しかしながら、神に辞表を呈するにはいかにしたらいいであろうか?
またそれはともかくとして、一つの事実がすべての上に顕然としてそびえ、彼の考えは常にその点に戻っていった。すなわち恐るべき違反の罪を犯したという一事であった。監視違反の再犯囚に対して、彼は目を閉じてきたのだった。ひとりの徒刑囚を放免してきたのだった。法律に属するひとりの男を盗んできたのだった。彼はまさしくそういうことを行なった。彼はもはや自分自身がわからなくなった。自分は果たして本来の自分であるか確かでなかった。自分の行為の理由さえも見失い、ただ眩惑《げんわく》のみが残っていた。彼はその時まで、暗黒なる清廉を生む盲目的な信念にのみ生きていた。しかるに今や、その信念は彼を去り、その清廉は彼になくなった。彼が信じていたことはすべて消散した。自分の欲しない真実が頑強《がんきょう》につきまとってきた。今後彼は別の人間とならなければならなかった。突然|内障眼《そこひ》の手術を受けた本心の異様な苦痛に悩んだ。見るのを厭《いと》っていたものを見た。自己が空《むな》しくなり、無用となり、過去の生命から切り離され、罷免され、崩壊されたのを、彼は感じた。官憲は彼のうちに死滅した。彼はもはや存在の理由を持たなかった。
かき乱されたる地位こそは恐るべきものである。
花崗岩《かこうがん》のごとき心であって、しかも疑念をいだく。法の鋳型の中
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