のだと考えた。
 彼は親切というものの世に存在することを認めざるを得なかった。あの囚人は親切であった。そして彼自身も、不思議なことではあるが、先刻親切な行ないをなしてきた。彼は変性したのだった。
 彼は自分が卑怯《ひきょう》であるのを認めた。彼は自ら恐ろしくなった。
 ジャヴェルの理想は、人間的たることではなく、偉大たることではなく、崇高たることではなかった。一点の非もないものとなることであった。
 しかるに彼は今や歩を誤っていた。
 どうして彼はそうなったのか、どうしてそういうことが起こったのか? それは彼自身にもわからなかった。彼は両手で頭を押さえ、いかに考えてみても、自らそれを説明することができなかった。
 確かに彼はジャン・ヴァルジャンを再び法律の下に置こうと常に考えていた。ジャン・ヴァルジャンは法律の虜《とりこ》であり、彼ジャヴェルは法律の奴隷《どれい》であった。ジャン・ヴァルジャンを手にしてる間、それを放ちやろうという考えを持ってるとは、彼はただの瞬時も自ら認めなかった。彼の手が開いてジャン・ヴァルジャンを放したのは、ほとんど自ら知らずに行なったことだった。
 あらゆる種類の謎《なぞ》のような新奇なことが、彼の眼前に現われてきた。彼は自ら問い自ら答えたが、その答はかえって彼を脅かした。彼は自ら尋ねてみた。「私がほとんど迫害するまでに追求したあの囚徒は、あの絶望の男は、私を足の下に踏まえ、復讐《ふくしゅう》することができ、しかも怨恨《えんこん》のためと身の安全のために復讐するのが至当でありながら、私の生命を助け、私を赦《ゆる》したが、それはいったいなぜであったか。私的な義務というか。否。義務以上の何かである。そして私もまたこんどは、彼を赦してやったが、それはいったいなぜであったか。私的な義務というか。否。義務以上の何かである。それでは果たして、義務以上の何かがあるのであるか?」そこになって彼はおびえた。彼の秤《はかり》ははずれてしまった。一方の皿は深淵《しんえん》のうちに落ち、一方の皿は天に上がった。そしてジャヴェルは、上にあがった方と下に落ちた方とに対して、等しく恐怖を感じた。彼はヴォルテール派とか哲人とか不信者とか呼ばれるような人物では少しもなかった。否かえって本能から、うち立てられたキリスト教会を尊敬していた。けれどもただ、社会全体のいかめしい一片と
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