で全部鋳上げられた懲戒の像であって、しかもその青銅の胸の中に、ほとんど心臓にも似たる不条理不従順なるある物を突然に認める。その日まで悪だと思っていたものが善となり、その善に対して善を報いなければならなくなる。番犬であって、しかも敵の手を舐《なめ》る。氷であって、しかも溶解する。釘抜《くぎぬ》きであって、しかも普通の手となる。突然に指が開くのを感ずる。つかんだ獲物を放つ。それは実に恐怖すべきことである。
 もはや進むべき道を知らずして後退する一個の人間の鉄砲弾であった。
 自ら次のことを認めざるを得ないとは何たることであろう! すなわち、無謬《むびゅう》なるもの必ずしも無謬ではない。信条のうちにも誤謬があり得る。法典はすべてを説きつくすものではない。社会は完全ではない。官憲も動揺することがある。動かすべからざるもののうちに割れ目のできることがある。裁判官も人間である。法律も誤ることがある。法廷も誤認することがある。大空の広大なる青ガラスにも亀裂が見らるるのか?
 ジャヴェルのうちに起こったことは、直線的な心の撓曲《とうきょく》であり、魂の脱線であり、不可抗の力をもってまっすぐに突進し神に当たって砕け散る、清廉の崩壊であった。確かにそれは異常なことだった。秩序の火夫が、官憲の機関車が、軌道を走る盲目なる鉄馬にまたがって進みながら、光明の一撃を受けて落馬したのである。変更を許さざるもの、直接なるもの、正規なるもの、幾何学的なるもの、受動的なるもの、完全なるものが、撓《たわ》んだのである。機関車に対してもダマスクスの道があったのである。([#ここから割り注]訳者注 聖パウロのある伝説に由来し、突然内心の光輝によって心機一転することをダマスクスの道という[#ここで割り注終わり])
 常に人の内部にあって真の良心となり虚偽に反発する神、閃光《せんこう》をして消滅することを得ざらしむる禁令、光輝をして太陽を記憶せしむるの命令、魂をして虚構の絶対とそれに接する真の絶対とを見分けしむるの訓令、死滅せざる人間性、滅落せざる人心、そういう燦然《さんぜん》たる現象を、おそらく人間の内部の最も美《うる》わしい不可思議を、ジャヴェルは知ったであろうか。ジャヴェルはそれを見通したであろうか。ジャヴェルはそれを了解したであろうか。否々。しかしながら、その不可解にして明白なるものの圧力の下に、彼は自
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