去る前に、見捨ててゆく方面へ向かって、すなわちジャン・ヴァルジャンの方へ向かって、カラビン銃を発射した。その響きは隧道《すいどう》の中に反響また反響となって伝わり、あたかもその巨大な腸の腹鳴りするがようだった。一片の漆喰《しっくい》が流れの中に落ちて、数歩の所に水をはね上げたので、ジャン・ヴァルジャンは頭の上の丸天井に弾があたったのを知った。
調子を取ったゆるやかな足音が、しばらく隧道の底部の上に響き、遠ざかるにしたがってしだいに弱くなり、一群の黒い影は見えなくなり、ちらちらと漂ってる光が、丸天井に丸い赤味を見せていたが、それも小さくなってついに消えてしまい、静寂はまた深くなり、暗黒はまた一面にひろがり、その闇《やみ》の中にはもう何も見えるものもなく聞こゆるものもなくなってしまった。けれどもジャン・ヴァルジャンは、なおあえて身動きもせずに、長い間壁に背をもたしてたたずみ、耳を傾け、瞳《ひとみ》をひろげて、その一隊の幻が消えうせるのをながめていた。
三 尾行されたる男
世間の重大な騒擾《そうじょう》の最中にも平然として保安と監視との義務を怠らなかったことは、当時の警察に認めてやらなければならない。暴動も警察の目から見れば、悪漢らを手放しにするの口実とはならないし、政府が危険に瀕《ひん》しているからといって、社会を閑却するの口実とはならない。平常の職務は、異常な場合の職務の間にも正確に尽されていて、少しも乱されてはいなかった。政治上の大事件が始まってる最中にも、あるいは革命となるかも知れないという不安の下にも、反乱や防寨《ぼうさい》に気を散らさるることなく、警官は盗賊を「尾行」していた。
ちょうどそういう一事が、六月六日の午後、セーヌ右岸のアンヴァリード橋の少し先の汀《みぎわ》で行なわれていた。
今日ではもうそこに川岸の汀はない。場所のありさまは一変している。
さてその川岸の汀の上で、ある距離をへだててる二人の男が、明らかに互いの目を避けながらも互いに注意し合ってるらしかった。先に行く男は遠ざかろうとしていたし、あとからついてゆく男は近寄ろうとしていた。
それはあたかも遠くから黙ってなされてる将棋のようなものだった。どちらも急ぐ様子はなく、ゆるやかに歩いていた。あまり急いでかえって相手の歩みを倍加させはすまいかと、互いに気使ってるがようだった。
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