たとえば、食に飢えた者が獲物を追っかけながら、それをわざと様子に現わすまいとしてるのと同じだった。獲物の方は狡猾《こうかつ》であって、巧みに身をまもっていた。
 追われてる鼬《いたち》と追っかけてる犬との間の適宜な割合が、ちょうど両者の間に保たれていた。のがれようとしてる男は、体も小さく顔もやせていた。捕えようとしてる男は、背の高い偉丈夫で、いかめしい様子をしており、腕力もすぐれてるらしかった。
 第一の男は、自分の方が弱いのを知って、第二の男を避けようとしていた。しかしおのずから一生懸命の様子が現われていた。彼をよく見たならば、逃走せんとする痛ましい敵対心と恐れに交じった虚勢とが、その目の中に読み取られたであろう。
 川岸の汀《みぎわ》には人影もなかった。通りすがりの者もなかった。所々につないである運送船には、船頭もいず人夫もいなかった。
 向こう岸からでなければふたりの様子をたやすく見て取ることはできなかった。そしてそれだけの距離を置いてながめる時には、先に行く男は、毛を逆立てぼろをまとい怪しい姿をして、ぼろぼろの仕事服の下に不安らしく震えており、後ろの男は、古風な役人ふうな姿をして、フロック型の官服をつけ頤《あご》の所までボタンをはめているのが、見て取られたろう。
 読者がもし更に近くからふたりをながめたならば、彼らが何者であるかをおそらく知り得たろう。
 第二の男の目的は何であったか?
 おそらく第一の者にもっと暖かい着物を着せてやろうというのに違いなかった。
 国家の服をつけてる者がぼろをまとってる男を追跡するのは、その男にもやはり国家の服を着せんがためにである。ただ問題はその色にある。青い服を着るのは光栄であり、赤い服を着るのは不愉快である。
 世には下層にも緋《ひ》の色がある。([#ここから割り注]訳者注 上層に皇帝の緋衣のあるごとくに[#ここで割り注終わり])
 第一の男がのがれんと欲していたのは、たぶんこの種の不愉快と緋の色とであったろう。
 第二の男が第一の男を先に歩かしてなお捕えないでいるのは、その様子から推測すると、彼をある著名な集合所にはいり込ませ、一群のいい獲物の所まで案内させようというつもりらしかった。その巧みなやり方を「尾行」という。
 右の推測をなお確かならしむることには、ボタンをはめてる男は川岸通りを通りかかった空《から》の辻
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