りに幽鬼を見た。それはいったい何であるか、彼にはわけがわからなかった。
 ジャン・ヴァルジャンが立ち止まったので、音はやんだ。
 巡邏《じゅんら》の人々は、耳を澄ましたが何にも聞こえず、目を定めたが何にも見えなかった。彼らは互いに相談を始めた。
 当時モンマルトルの下水道にはちょうどその地点に、通用地[#「通用地」に傍点]と言われてる一種の四つ辻《つじ》があった。大雨のおりなどには雨水が流れ込んできて地下の小さな湖水みたようになるので、後に廃されてしまった。巡邏の者らはその広場に集まることができた。
 ジャン・ヴァルジャンは幽鬼らがいっしょに丸く集まってるのを見た。その犬のような頭は、互いに近く寄ってささやきかわした。
 それらの番犬がなした相談の結果は次のことに帰着した。何か思い違いをしたのである。音がしたのではない。だれもいない。囲繞溝渠《いじょうこうきょ》のうちにはいり込むのはむだである。それはただ時間を空費するばかりだ。それよりもサン・メーリーの方へ急いで行かなければいけない。何かなすべきことがあり追跡すべき「ブーザンゴー」がいるとするならば、それはサン・メーリーの方面においてである。
 徒党というものは時々その古い侮辱的な綽名《あだな》を仕立て直してゆく。一八三二年には、「ブーザンゴー[#「ブーザンゴー」に傍点]」([#ここから割り注]水夫帽[#ここで割り注終わり])という言葉は、既にすたってるジャコバン[#「ジャコバン」に傍点]という言葉と、当時まだあまり使われていなかったがその後広く用いられたデマゴーグ[#「デマゴーグ」に傍点]という言葉との、中間をつないで過激民主党をさすのだった。
 隊長は斜めに左へ外《そ》れてセーヌ川への斜面の方に下ってゆくよう命令を下した。もし彼らが二つに分かれて二方面へ進んでみようという考えを起こしたならば、ジャン・ヴァルジャンは捕えられていたろう。ただ一筋の糸にかかっていたのである。おそらく警視庁では、戦闘の場合を予想し暴徒らが多数いるかも知れないと予想して、巡邏隊に分散することを禁ずる訓令を出したのであろう。一隊はジャン・ヴァルジャンをあとに残して歩き出した。すべてそれらの行動についてジャン・ヴァルジャンが認めたことは、にわかに角灯が彼方に向いて光がなくなったことだけだった。
 隊長は警官としての良心の責を免れるため、立ち
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