た。
岬《みさき》のように街路につき出ているその角の事を、読者は覚えているだろう。それにさえぎられて数尺の四角な地面は、銃弾も霰弾《さんだん》もまた人の視線をも免れていた。時としては、火災のまんなかにあって少しも焼けていない室《へや》があり、また荒れ狂ってる海の中にあって、岬の手前か袋のような暗礁の中に、少しの静穏な一隅《いちぐう》がある。エポニーヌが最後の息を引き取ったのも、防寨の四角な内部のうちにあるそういうすみにおいてであった。
そこまで行って、ジャン・ヴァルジャンは立ち止まり、マリユスを地上におろし、壁に背を寄せて周囲を見回した。
情況は危急をきわめていた。
一瞬の間は、おそらく二、三分の間は、その一面の壁に身を隠すことができた。しかしこの殺戮《さつりく》の場所からどうして出たらいいか? 八年前ポロンソー街でなした苦心と、ついにそこを脱し得た方法とを、彼は思い出した。それはあの時非常に困難なことだったが、今はまったく不可能なことだった。前面には、七階建てのびくともしない聾《つんぼ》のような家があって、その窓によりかかってる死人のほかには住む人もないかのように見えていた。右手には、プティート・トリュアンドリーの方をふさいでるかなり低い防寨《ぼうさい》があった。その障壁をまたぎ越すのはわけはなさそうだったが、しかしその頂の上から、一列の銃剣の先が見えていた。防寨の向こうに配備されて待ち受けてる戦列歩兵の分隊だった。明らかに、その防寨を越すことはわざわざ銃火を受けに行くようなものであり、その舗石《しきいし》の壁の上からのぞき出す頭は、六十梃《ろくじっちょう》の銃火の的となるのだった。左手には戦場があった。壁の角の向こうには死が控えていた。
どうしたらよいか?
そこから脱し得るのはおそらく鳥のみであろう。
しかも、直ちに方法を定め、工夫をめぐらし、決心を堅めなければならなかった。数歩先の所で戦いは行なわれていた。幸いなことには、ただ一点に、居酒屋の戸口に向かってのみ、すべての者が飛びかかっていた。しかし、ひとりの兵士が、ただひとりでも、家を回ろうという考えを起こすか、あるいは側面から攻撃しようという考えを起こしたならば、万事休するのだった。
ジャン・ヴァルジャンは正面の家をながめ、傍の防寨をながめ、次には、狂乱の体になってせっぱつまった猛烈さで地面を
前へ
次へ
全309ページ中88ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング