ュは言った。
「それだけだ。」とグールメルが言った。
 浮浪少年は綱と管と壁と窓とを見調べ、そして軽蔑するような何とも言えぬ音を脣《くちびる》から出した。その意味はこうだった。
「それだけか!」
「上に人がいる、それをお前は救うんだ。」とモンパルナスは言った。
「やるか?」とブリュジョンが言った。
「なーんだい!」と少年は、そんな問いをかける奴《やつ》があるかとでもいうように答え返した。そして靴《くつ》をぬいだ。
 グールメルはガヴローシュの片腕をつかんで、彼を板小屋の屋根にのせた。虫食ったその屋根板は子供の重みにしなった。それからグールメルは、モンパルナスのいない間にブリュジョンがつなぎ合わせた綱を彼に渡した。浮浪少年は管の方へ進んだ。ちょうど屋根に接して大きな割れ目が一つあって、それから中にはいるのは容易だった。そこから彼が上って行こうとした時、テナルディエは救済と生命とが近づくのを見て、壁の端からのぞき出した。彼の汗にまみれた額、青ざめた頬骨《ほおぼね》、猛悪な鋭い鼻、逆立った灰色の髭《ひげ》、などが暁の初光にほの白く浮き出して、ガヴローシュはそれがだれであるかを見て取った。
「やあ、」と彼は言った、「親父《おやじ》だな。……なにかまうこたあねえ。」
 そして綱を口にくわえ、思い切って上り始めた。
 彼は廃屋の頂上に上りつき、その古い壁にまたがり、窓の一番上の横木に綱をしっかりと結びつけた。
 それから間もなく、テナルディエは街路に出ていた。
 街路の舗石《しきいし》に足を触るるや、危険の外に脱したのを感ずるや、彼はもう疲れても凍えても震えてもいなかった。ようやく脱《のが》れてきた恐ろしいことどもは煙のように消えてしまって、異常な獰猛《どうもう》な知力がよみがえり、自由にすっくと立ち上がって前に進もうとしていた。そして彼が発した最初の言葉はこうだった。
「ところで何奴《どいつ》を食ってやろうかね。」
 その言葉の意味は明らかに、殺し屠《ほふ》りはぎ取るというのをいっしょにしたものであることは、説明するまでもない。食う[#「食う」に傍点]の真の意味は呑噬《どんぜい》する[#「する」に傍点]というのである。
「うまく身を隠そうじゃねえか。」とブリュジョンは言った。「手早く話をきめて、すぐに別れるとしよう。プリューメ街にうまそうな仕事が一つあったがね。寂しい通りで、近所から離れた家で、庭の古い鉄門は腐っており、女ばかりだ。」
「なるほど。それがどうしていけねえんだ?」とテナルディエは尋ねた。
「お前の娘のエポニーヌが調べに行ったんだ。」とバベが答えた。
「ところがマニョンの所にビスケットを持ってきたんだ。」とブリュジョンは言い添えた。
「あれはとうていだめだ。」
「あの娘はばかじゃねえ。」とテナルディエは言った。「だが一応調べてやろう。」
「そうだ、そうだ、」とブリュジョンは言った、「一応調べるがいい。」
 その間、彼らはだれもガヴローシュをもう気にも止めていなかった。ガヴローシュは彼らの話の間、板塀《いたべい》の標石の一つに腰掛けて、しばらくじっとしていた。おそらく親父《おやじ》がふり向いてくれるのを待っていたのであろう。それから彼は靴《くつ》をはいて言った。
「すんだのかい、もう用はねえのかい、おい大人《おとな》たち。どうにかきりぬけたってわけだな。じゃあ俺《おれ》は行くよ。子供《がき》どもを起こしに行ってやるかな。」
 そして彼は立ち去った。
 五人の男はひとりひとり板塀から出た。
 ガヴローシュがバレー街の曲がり角《かど》に見えなくなると、バベはテナルディエをわきに呼んだ。
「お前はあの小僧をよく見たか。」と彼は尋ねた。
「どの小僧?」
「壁に上ってお前に綱を渡したあの小僧だ。」
「よかあ見ねえ。」
「俺《おれ》にもよくわからねえが、何だかお前の息子らしかったぜ。」
「ほう、」とテナルディエは言った、「そうかね。」
 そして彼は向こうへ立ち去っていった。
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   第七編 隠語


     一 起原

 Pigritia([#ここから割り注]怠惰[#ここで割り注終わり])とは恐るべき言葉である。
 この言葉から、〔Pe`gre〕 すなわち盗賊という一つの社会と 〔pe'grenne〕 すなわち飢餓という一つの地獄とが生まれて来る。
 かくして怠惰は母である。
 この母に、盗賊というひとりの息子と飢餓というひとりの娘とがある。
 我々はここに argot([#ここから割り注]隠語[#ここで割り注終わり])の世界のことを説いているのである。
 隠語とは何であるか? それは同時に国民にしてまた特殊語である。それは人と言葉と両形式の下にいう盗賊である。
 三十四年前、この厳粛なまた陰惨な物語の作者([#ここから
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