р闥香n本書の著者ユーゴー[#ここで割り注終わり])が、これと同じ目的において書いた作品(死刑囚最後の日[#「死刑囚最後の日」に傍点])のまんなかに、ひとりの盗人を出して隠語を話さした時、世人の驚駭《きょうがい》と喧騒《けんそう》とを惹起《じゃっき》した。「なに! なんだ! 隠語だと! 隠語とはひどい。それは漕刑場《そうけいじょう》や徒刑場や監獄など、社会の最も恐ろしい方面で話す言葉ではないか。云々《うんぬん》、云々。」
 しかし我々は、その種の非難の理由を少しも了解することができなかった。
 その後、一つは人の心の深い観察者であり一つは民衆の大胆なる友であるふたりの力強い作家、バルザックとウーゼーヌ・スューとが、死刑囚最後の日[#「死刑囚最後の日」に傍点]の作者が一八二八年になしたように、悪漢共にその本来の言葉を話さした時、同じような物議が起こった。世人は再び言った。「このいやな訛《なま》りを持ち出して作者は一体我々に何をしようというのか? 隠語とは全くやりきれない。身震いが出るようだ。」
 だれがそれを否定しよう。まさしく隠語は嫌悪《けんお》すべきものである。
 しかし、一つの傷の、一つの深淵《しんえん》の、もしくは一つの社会の深さを測らんとするに際して、余り深くへ下ってはいけない、どん底に達してはいけない、などという理由がどこにあろう。否そうすることこそ、時によっては勇敢な行為であり、少なくとも他意ない有益な行為であり、甘受され遂行された義務に相当する同情的注意をひくべきものと我々は常に考えていたのである。すべてを掘り返してはいけない、すべてを調べ上げてはいけない、中途に足を止めなければいけない、などという理由がどこにあるか? 中途に止まるか否かは錘《おもり》に関することであって、錘を投ぐる者のあずかり知るところではない。
 確かに、社会組織のどん底に、地面がつき泥濘《でいねい》が始まる所に、探索の歩を進め、濃い暗雲のうちをかき回して、明るみに出せば泥《どろ》のしたたるこの賤《いや》しい特殊語を、泥濘と暗黒との怪物の不潔な鱗《うろこ》のように見えるこのきたない単語を、追い回し引きとらえて生きたまま地上に投げ出すことは、おもしろい仕事でもなくまたたやすい仕事でもない。隠語の恐るべき群れを、その赤裸のままに観察し、思想の光に照らして観察することは、最も沈痛な仕事である。実際それは、汚水だめのうちから引き出してきた一種の嫌悪《けんお》すべき闇夜《やみよ》の獣かとも思われる。刺《とげ》を逆立てた恐るべき生きた藪《やぶ》が、身を震わし、動き回り、のたうち回って、暗黒を求め、恐ろしい姿をし、目を怒らしているのを、眼前に見るかとも思われる。ある言葉は爪牙《そうが》に似、ある言葉は濁り血走った目に似、またある句は蟹《かに》の鋏《はさみ》のように動いてるようでもある。すべてそれらは、混乱のうちに形造られてる事物の嫌忌すべき活力に生きているのである。
 けれども、嫌悪のゆえに研究を排し去るのいわれがあるだろうか。病気は医者を遠ざけるのいわれがあるだろうか。蝮《まむし》や蝙蝠《こうもり》や蠍《さそり》や蚰蜒《げじげじ》や毒蜘蛛《どくぐも》などを研究することを拒み、「実にきたない!」と言いながら、それらを闇のうちに投げ捨てる博物学者を、人は想像し得らるるか。隠語から顔をそむける思想家があるとすれば、それは潰瘍《かいよう》や疣《いぼ》などから顔をそむける外科医のごときものである。言語上の一事実を調べるに躊躇《ちゅうちょ》する言語学者のごときものであり、人類の一事実を探究するに躊躇する哲学者のごときものである。なぜなれば、おおよそ隠語は文学上の一現象であり社会上の一結果であって、これを知らない者などにはよく説明してやるの要がある。ところで隠語とは本来何であるか。隠語とは悲惨そのものの言語である。
 かくいう時、人は我々の袂《たもと》を引き止めるかも知れない。時として論の鋭利を和らぐる方法となる概括を人は持ち出すかも知れない。そして、すべての職業、すべての職務、それからまた、社会のあらゆる階級や知識のあらゆる方面にも、皆それぞれの隠語があるというであろう。例は無数にある――([#ここから割り注]訳者注 以下の言葉はそのままの翻訳不可能なるものあるが故に原語とその意味とをのみ掲ぐる[#ここで割り注終わり])
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商人―― 〔Montpellier disponible, Marseille belle qualite'.〕([#ここから割り注]徳用のモンペリエ物、上等のマルセイユ物[#ここで割り注終わり])
仲買人―― report, prime, fin courant.([#ここから割り注]鞘、打歩、当月払[#ここで割り注終わり]
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