一片の小さな鋼鉄の時計の撥条《ぜんまい》に歯をつけて鋸《のこぎり》にしたものだ。銅貨の中に隠した針くらいの長さのその鋸で、錠前の閂子《かんし》や、※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》の軸や、海老錠《えびじょう》の柄や、窓についてる鉄棒や、足についてる鉄枷《てつかせ》などを、切らなければならない。そして、その精巧な道具を作り、その驚くべき仕事をなし遂げ、その技術と器用と巧妙と忍耐との奇跡を果たした後、もしそれがお前のやったことだと知れたら、どういう報いがやってくるか。それはただ地牢《ちろう》ばかりだ。そういうのがお前の未来だ。怠惰といい楽しみというものは、何という絶壁だろう。何にもしないということは、痛むべき方針だ。わかるだろうね。社会の財産をあてにしてなまけて暮らすこと、何の役にも立たない生活を送ること、言いかえれば有害な生活をすること、それは人をまっ逆様に悲惨のどん底に投げ込んでしまう。社会の寄食者《いそうろう》になろうとする者こそ不幸だ、ついには有害な寄生虫になってしまう。ああお前は働くことを好まない、うまい酒を飲みうまいものを食い楽に寝ていたいという考えきり持っていない。だがそれでは結局、水を飲むようになり、黒パンをかじるようになり、手足は鎖につながれて夜通しその冷たさを身に感じながら、板の上にじかに寝るようになるだろう。その鎖を切って逃げ出す、なるほどそれもいい。藪《やぶ》の中を腹ばいになって潜んでゆき、森の中の獣のように草を食うだろう。そしてまたつかまるだろう。それからは、地牢《ちろう》の中で、壁につなぎとめられ、水を飲むにも壺《つぼ》を手探りにし、犬も食わないようなひどい黒パンをかじり、虫に食いちらされた豆を食べて、幾年も過ごすようになるだろう。窖《あなぐら》の草鞋虫《わらじむし》と同じだ。少しは自分の身体をいたわるがいい。かわいそうに、まだごく若いのに、乳母《うば》の乳房を離れて二十年とはならず、母親もまだ生きてるだろう。まあどうか私《わし》のいうことを聞くがよい。お前は上等の黒ラシャを着、漆塗《うるしぬ》りの舞踏靴《ぶとうぐつ》をはき、髪の毛を縮らし、いいにおいの油をぬり、下等な女を喜ばせ、きれいになりたがっている。だがしまいには、頭の毛は短く刈られ、赤い上衣を着せられ、木靴をはかせられるようになる。指に指輪をはめたがっても、首に鉄の輪をはめられるようになる。もし女に横目でもつかえば、棒でなぐられる。そしてそこにはいる時は二十歳くらいでも、出る時には五十歳にもなる。はいる時には年が若く、顔色は美しく、いきいきとして、目は輝き、歯はまっ白で、若々しいりっぱな髪の毛をしていても、出て来る時には、老衰し、腰は曲がり、皺《しわ》はより、歯はぬけ、恐ろしい姿になって、髪の毛もまっ白になっている。ああかわいそうにお前は誤った道を取っている。何にもしないということが、お前を悪い方へ導いたのだ。仕事のうちでも一番つらいことは、盗みの仕事である。私《わし》を信じて、なまけようなどという困難な仕事を始めなさんな。悪者になるのは、容易なことではない。正直な人間になる方がよほど楽だ。さあ行って、私の言ったことをよく考えてみなさい。ところで、何か用だったか。財布《さいふ》かね。それならここにある。」
 そして老人はモンパルナスから手を放し、彼の手に財布《さいふ》を握らしてやった。モンパルナスはちょっとその重さを手ではかってみて、それから自分で盗みでもしたように機械的な注意を配って、上衣の後ろのポケットにそれを静かにすべり込ました。
 以上のことを語り終え、以上のことをなした後、老人は彼に背中を向け、平気で散歩を続けた。
「まぬけめ!」とモンパルナスはつぶやいた。
 そもそもこの老人は何人《なんぴと》であったか。読者は既に察知したに違いない。
 モンパルナスはそれでもやはり呆然《ぼうぜん》として、老人が闇《やみ》の中に没し去るのをながめた。そういうふうに後《あと》見送って考え込んだことは、彼のためにごくいけなかった。
 老人が遠ざかるとともに、ガヴローシュが近寄ってきたのである。
 ガヴローシュはじろりと横目で、マブーフ老人がやはりまだベンチにすわってるのを見て取った。おそらく眠っていたのであろう。それで浮浪少年は藪《やぶ》の中から出てきて、じっと立ってるモンパルナスの後ろに、影の中をはい寄った。そういうふうにして彼は、モンパルナスから見られもせず音も聞かれないで、そのそばまでやってゆき、上等な黒ラシャの上衣の後ろのポケットにそっと手を差し入れ、財布をつかみ、手を引き出し、そしてまたはいながら、蛇《へび》が逃げるように闇《やみ》の中に姿を隠してしまった。モンパルナスは自分の方を用心するなどという理由がなかった上に
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