た。ガヴローシュはその一語をも聞きもらさなかった。
「おい、お前は怠惰なために一番苦しい生活にはいっている。お前は何にもしないのだと自分で言っている。けれども少しは働くように心掛けるがいい。お前は恐ろしい一つの機械を見たことがあるかね。輪転機というやつだ。用心しなければいけない。陰険な猛烈な機械だ。もし着物の裾《すそ》でもつかまれようものなら、身体まですっかり巻き込まれてしまう。この機械というのはほかでもない、なまけるということだ。まだいよいよとならないうちに踏み止まって、のがれだすがいい。そうでないともう万事だめだ。じきにその歯車の中に引き込まれてしまう。一度引き込まれたらもう出る望みはない。そこではただ疲れるばかりで、休むこともできない。一歩も仮借しない労役の鉄の手からつかまれるだけだ。お前は今、自分の手で生活しようと思っていない、仕事をし義務を果たそうと思っていない。普通の人のように暮らしてゆくことをいやがっている。だが別の道を歩くこともできるだろう。労働は天の法則だ。いやだといってそれを拒む者には、刑罰としてそれが落ちかかって来る。お前は労働者になることを好かないというが、それでは奴隷《どれい》となるばかりだ。労働は、一方でお前を許しても、他方でお前をとらえる。お前は労働の友だちになることを好まないで、かえってその奴隷になろうとしている。ああお前は、人間らしい正直な骨折りをきらって、罪人の額の汗を得ようとしている。他の人たちが歌をうたう時に、お前は息を切らすようになるんだ。下の方から遠くに、他の人たちが仕事をするのを見上げるようになるんだ。そしてその人たちは、お前の目には休んでるように見えてくるだろう。地を耕してる者や刈り入れをしてる者や、水夫や鍛冶屋《かじや》なども、天国の幸福な人々のように栄光に包まれてるとお前には思えてくるだろう。鍛冶屋《かじや》の仕事場もどんなにか光り輝くだろう。鋤《すき》をとり穂を束ねることもどんなにか幸福に見えるだろう。風のまにまに自由の帆を操《あやつ》る小舟もどんなにか楽しく見えるだろう。ところが怠惰なお前は、鶴嘴《つるはし》を使い、鎖を引きずり、車を引き、歩かなければならない。身体を縛ってる鎖を引きずって、地獄の中で荷物を引く獣と同じになるばかりだ。何にもしないことをお前は目的だとしていた。それなのに、ただの一週間も、ただの一日も、ただの一時間も、苦しい思いをしないではいられなくなる。何一つ持ち上げるにも苦痛を感ずるだろう。一刻の休みもなく絶えず筋肉はみりみりいうだろう。他の者には鳥の羽ぐらいなものも、お前には岩のように思えるだろう。ごくわけもないことも、大事業のようになるだろう。世の中は至る所恐ろしくなってくる。行ったりきたり息をしたりするのさえ、大変な仕事のようになってくる。肺をふくらますのさえ、百斤の重さを上げるような気がしてくる。ここを歩いたものかそれとも向こうを歩いたものか、そういうことまで一大事の問題となってくる。だれでも外に出ようと思えば、扉《とびら》を押し開くだけでもう外に出ている。ところがお前は、外に出ようとするには壁をつき破らなければならなくなる。往来に出るにも、普通の人はどうするかね。ただ階段をおりてゆくだけだ。ところがお前の方では、敷き布を裂き、それを一片ずつつなぎ合わして綱をこしらえ、それから窓をはい出し、その一筋の綱にすがって深い淵《ふち》の上にぶら下がるのだ。しかも夜か、暴風か、雨か、台風かの時だ。そして綱が短い時には、おりる道はただ飛びおりるほかはない。向こう見ずに無鉄砲に飛びおりるほかはない。それもかなりの高さからで、下には何があるかまったくわからない。またそうでなければ、身体を焦がすのもかまわずに、暖炉の煙筒の中をよじ上るか、あるいはおぼれるのもかまわずに、排尿口からはい出すのだ。そのほか、出入り口の穴を隠したり、日に二十遍も石を出したり入れたり、藁蒲団《わらぶとん》の中に漆喰《しっくい》の欠けをしまい込んだりするのは、言わずものことだ。錠前がある場合には、普通の市民なら錠前屋が作ってくれた鍵《かぎ》をポケットに持っている。ところがお前は、そこから出ようとする時には、精巧な恐ろしい道具を一つこしらえなければならない。大きな一スー銅貨を一つ取って、それを二枚に割る。何で割るのか、それも工夫しなければならない。それはお前の方の考えにあることだ。それから両方の表面には傷をつけないように注意して中をくりぬき、その縁には溝《みぞ》をつけ、二枚きっかり合わさって箱と蓋《ふた》とになるようにする。上と下とをよくはめ込めば、人にさとられることはない。お前を注意してる監視人には、それはただ一つの銅貨にすぎないが、お前には一つの箱となる。その箱の中に何を入れるかと言えば、
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