、生涯に始めて深く考え込んでしまっていたので、それに少しも気づかなかった。ガヴローシュはマブーフ老人がいる所まで戻って来ると、籬《まがき》越しに財布を投げ込んで、足に任して逃げ出した。
財布はマブーフ老人の足の上に落ちた。その打撃で彼は目をさました。彼は身をかがめて財布を拾い上げた。何のことか少しもわからなかったので、中を開いてみた。中は二つに分かれていて、一方には小銭が少しはいっており、他方にはナポレオン金貨([#ここから割り注]訳者注 ルイ金貨と同じく二十フランの金貨[#ここで割り注終わり])が六つはいっていた。
マブーフ氏は非常に驚いて、それを婆さんの所へ持っていった。
「天から落ちてきたのですよ。」とプリュタルク婆さんは言った。
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第五編 首尾の相違
一 寂寞《せきばく》の地と兵営
コゼットの悲しみは、過ぎた四、五カ月の間はいかにも強く、また今なお、きわめて痛ましいものではあったが、既に彼女自ら知らないうちに回復期に向かっていた。自然と、春と、青春と、父に対する愛と、小鳥や花の快さなどは、いかにも純潔な年若い彼女の心に、ほとんど忘却にも似たある物を、しだいに、日ごとに、一滴ずつ、浸み込ましていった。あの火はまったく消えてしまったのであろうか? あるいはただその上に灰がたまったのであろうか? ただ事実は、もはやほとんど痛み燃ゆる個所を彼女は感じなくなったということである。
ある日彼女は突然マリユスのことを思い出した。「まあ、私はもうあの人のことを忘れかけてるのかしら、」と彼女は言った。
その同じ週に彼女は、ひとりのごくりっぱな槍騎兵《そうきへい》の将校が、表庭の鉄門の前を通るのを見た。きゃしゃな腰つき、美しい軍服、若い娘のような頬《ほお》、腕にかかえた剣、蝋油《ろうゆ》をぬった口髭《くちひげ》、漆《うるし》ぬりの兜帽《かぶとぼう》、それにまた、金髪、大きな青い目、得意げな傲慢《ごうまん》なきれいな丸い顔つきで、マリユスとはまったく反対だった。口には葉巻きをくわえていた。バビローヌ街にある兵営の連隊に属する人であろうと、コゼットは考えた。
翌日も彼女はその将校が通るのを見た。そしてその時間を注意しておいた。
それから後は、偶然であったかどうかわからないが、ほとんど毎日彼女は彼が通るのを見た。
将校の友人らは、「よく手入れがしてない、」その庭の中に、ロココ式の古ぼけた鉄門の後ろに、かなりの美人がいて、この美しい中尉が通る時にはたいていそこに出ていることに気づいた。この中尉というのは読者の知らない男ではなく、テオデュール・ジルノルマンにほかならなかった。
「おい、」と友人らは彼に言った、「君に目をつけてる娘がいるぞ、少し見てやれ。」
「俺《おれ》を見てる娘っ子に一々気をとめるだけの隙《ひま》があるもんか。」と槍騎兵《そうきへい》は答えた。
それはちょうどマリユスが、苦悶《くもん》の方へ深く沈んでゆきながら、「死ぬ前にただ彼女に再び会うことができさえするならば!」と自ら言ってる時だった。もし彼の希望が達せられ、その時槍騎兵をながめてる彼女を見たならば、彼は一言をも発することができず、悲しみのあまり息絶えたかも知れなかった。
それはだれの罪であったか? 否だれの罪でもない。
マリユスは懊悩《おうのう》のうちに沈み込んでそこに長く留まってるという気質の男だった。コゼットは懊悩のうちに身を投じてもまたそこから出て来るという気質の女だった。
その上コゼットは、危険な時期を通っていた。それは自分の意のままに打ち任せられた女の夢想が必然に一度は通る世界であって、その時の孤独な若い娘の心は、葡萄《ぶどう》の新芽にも似寄ったもので、偶然な事情のままに、大理石の円柱の頭にもからめば居酒屋の木の柱にもからみつく。それは急速な大事な時期であって、ことに孤児にあってはその貧富を問わず危険な時期である。なぜならば、金はあっても悪いものを選ばないとは限らない。不似合いな結婚は高位の人の間にもなされる。しかし真の不似合いな結婚は魂と魂との間になされるものである。一方には、名もなく家柄もなく財産もなく世に埋もれている青年のうちにも、偉大なる感情や観念の殿堂をささえる大理石の柱頭たる者があり、他方には、自ら得意となり繁栄をきわめて、靴《くつ》を光らし言葉を飾ってる上流の人のうちにも、その外部でなく内部をのぞく時には、言い換えれば女のために保有してるところのものをのぞく時には、激しい不潔な盲目な情欲のみいだいてる愚かな小人にすぎなくて、居酒屋の木の柱にすぎない者もある。
コゼットの魂のうちには何があったか? やわらげられ、あるいは眠らされている情熱、浮動の状態にある愛情、ある深さでは曇り更に下は薄暗い
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