前は奴隷《どれい》だったろう、そして今奴隷の鎖とその鎖とを比較し得たに違いない。恐るべき最下層の底をなす汚辱は、彼らの額に現われていた。そしてかかるどん底への沈淪《ちんりん》において、最後の深みに陥ってる彼らは最後の変容を受けていた。愚蒙《ぐもう》に変じた無知は絶望に変じた知力と同等だった。泥濘《でいねい》の精とも見えるそれらの者共のうちには、だれ彼の差別をつけることはできなかった。その不潔な行列を指導する者も明らかに、彼らを分類してはいなかった。彼らは区別なくいっしょにつなぎ合わされて、おそらくいろは順[#「いろは順」に傍点]などにもとん着なく無造作に並べられ、無茶苦茶に車の上に積まれていた。けれども、嫌悪《けんお》すべきものもこれを多く集むる時には、ついに一種の結合の力を生ずるのが常である。不幸なるものもこれを加算する時には、一つの総計が出てくるものである。各鎖からは共通な魂が現われ、各馬車にはそれぞれの相貌《そうぼう》があった。歌を歌ってる馬車の次には、怒号してる馬車があった。第三の馬車は哀願していた。歯がみをしてる馬車も一つ見られた。また一つは通行人を脅かし、も一つは神をののしっていた。最後のものは墓のように沈黙していた。ダンテがそれを見たならば、地獄の七界が動き出してるのだと思ったであろう。
 永劫《えいごう》の罰を被った者らがその苦難の場所に向かって惨憺《さんたん》たる進行を続けるのは、黙示録にあるような炎を発する恐るべき車に乗ってではなくして、いっそう陰惨なることには、死体陳列の梯子《はしご》を具えた車に乗って行くのである。
 警護の兵士のひとりは、先に鈎《かぎ》のついた棒を持っていて、時々その人間の塵芥溜《ごみため》をかき回そうとするような顔つきをした。群集の中にあったひとりの老婆は、五歳ばかりの小さな男の子にその方をさし示して言った、「おい[#「おい」に傍点]、あれをよく見とくがいいよ[#「あれをよく見とくがいいよ」に傍点]!」
 歌の声やののしる声がひどくなると、警護の隊長らしい者が鞭《むち》を鳴らした。するとそれを合い図にして、耳を聾《ろう》し目をくらますほどの恐ろしい殴打《おうだ》は、雹《ひょう》の降るような音を立てて七つの馬車の上に浴びせられた。多くの者はうなって口から泡《あわ》を吹いた。傷口にたかる蠅《はえ》の群れのように集まってきた浮浪少年らは、それを見ていっそうはやし立てた。
 ジャン・ヴァルジャンの目は恐ろしいありさまに変わっていた。それはもはや眸《ひとみ》とさえも言えなかった。ある種の不幸な者に見らるるとおり、普通の目つきと違った奥深いガラス玉で、もはや現実に対する感覚を失い、ただ恐怖と破滅との反映のみが燃え立ってるかと思われるものだった。彼は一つの光景をながめてるのではなく、一つの幻影に見入ってるのだった。彼は立ち上がり、逃げ出し、身を脱しようとした。しかし足はすくんで動かなかった。時とすると、眼前に見える事物はかえってその人をとらえて動かさないことがある。ジャン・ヴァルジャンはそこに釘《くぎ》付けにされ、化石したようになり、惘然《ぼうぜん》[#ルビの「ぼうぜん」は底本では「ばうぜん」]として、名状し難い一種の雑然たる苦悶《くもん》を通して、自ら尋ねた、この死のごとき迫害はいったい何を意味するものであるかと、そして自分を追求してきたこの悪鬼の殿堂はどこから出てきたのであるかと。突然彼は額に手をあてた。にわかに記憶がよみがえってきた者のする身振りである。彼は思い出した、それは実際囚人らが運ばれるのであること、この回り道はフォンテーヌブローの大道ではいつ国王に行き会うかわからないのを避けるために昔から取られてる慣例であること、三十五年前には自分もまたこの市門を通って行ったのであることを。
 コゼットの方も、違った意味からではあったが、彼に劣らず恐怖の念をいだいた。彼女には訳がわからなかった。彼女は息さえできないほどになった。眼前に見る光景は世にあり得べからざることのように思えた。がついに彼女は叫んだ。
「お父様、あの車の中にいるのは何でしょう?」
 ジャン・ヴァルジャンは答えた。
「囚人だ。」
「どこへ行くんでしょう?」
「徒刑場へ。」
 その時、多くの者が、いっせいに打ちおろす殴打はその絶頂に達し、サーベルの平打さえも加えられて、あたかも鞭《むち》と棒との暴風雨となった。囚徒らは背をかがめ、呵責《かしゃく》の下に恐るべき服従を強いられ、鎖につながれた狼《おおかみ》のような目つきをして皆黙ってしまった。コゼットは全身を震わした、そして言った。
「お父様、あれでも人間でしょうか?」
「あゝ、時によっては。」と不幸な老人は答えた。
 それは実際一連の刑鎖で、夜明け前にビセートルを発して、当時国王が
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