いたフォンテーヌブローを避けるために、マンの方へ回り道をしてきたのである。そのため、恐るべき旅は二、三日長びくことになった。国王たる者の目にかかる刑罰を見せないためには、その苦痛を長引かせるのも至当のことだとみえる。
 ジャン・ヴァルジャンは困憊《こんぱい》して家に帰ってきた。そういう遭遇は彼にとっては大きな打撃であり、そのために心に残された思い出は、彼の全身を震盪《しんとう》するかと思われた。
 それでもジャン・ヴァルジャンは、コゼットとともにバビローヌ街の方へ戻りながら、ふたりが見たところのものについて彼女がその他に何にも尋ねなかったような気がした。おそらく彼はあまりに困憊のうちに浸りこんでいて、彼女の言葉にも気づかず、彼女に答うることもできなかったのであろう。ただ晩になって、コゼットが彼のもとを去って寝に行く時、彼女が独語のように半ば口の中で言うのを彼は耳にした。「あんな人たちのひとりにでも道で行き合ったら、それこそ私は、近くでその姿を見るだけで気を失ってしまいそうですわ。」
 幸いにして偶然にもその悲痛な日の翌日、何の盛典だったか、パリーには非常なにぎわいがあった。練兵場の観兵式、セーヌ川の舟上試合、シャン・ゼリゼー通りの演芸、エトアール広場の花火、その他至る所にイリュミネーションがあった。ジャン・ヴァルジャンはいつもの癖を破って、それらを見にコゼットを連れてゆき、前日の記憶を紛らしてやり、パリー全市のはなやかなどよめきのうちに、彼女の眼前を過《よぎ》った前日の恐ろしいものを打ち消してやろうとした。祝典を飾る観兵式があるために、正服の軍人が往来するのもごく自然らしかった。ジャン・ヴァルジャンは身を隠す者のような気持ちを内心にぼんやり感じながら、国民兵たる自分の軍服をつけた。そしてその散歩の目的はついに達せられたようだった。コゼットはいつも父の意を迎えることばかりしていたし、その上あらゆる光景は彼女にとって物珍しかったので、青春の頃によくあるたやすい気軽な喜びをもってその気晴らしに賛成し、お祭り騒ぎと言われるごった返した遊楽に対してもあまり軽蔑的な渋面を作らなかった。それでジャン・ヴァルジャンは、うまく成功したと思うことができ、あのいとうべき幻の跡はもう少しも残っていないと信ずることができた。
 それから数日後、ある朝、日の光の麗わしい時、ふたりは表庭の石段の所に立っていた。これもまた、ジャン・ヴァルジャンが自ら定めたらしい常例に反することであり、悲しみのため室内に閉じこもりがちになったコゼットの習慣に反することであった。その時コゼットは化粧着をまとったままで、若い娘を美妙におおい、星にかかった雲のような趣のある起き出たばかりの淡装で立っていた。そして朝日の光を頭に浴び、眠りの足りた薔薇色《ばらいろ》の顔をし、心沈める老人からやさしくながめられながら、雛菊《ひなぎく》の花弁をむしっていた。もとよりコゼットは、あなたを愛する[#「あなたを愛する」に傍点]、少しばかり[#「少しばかり」に傍点]、心をこめて[#「心をこめて」に傍点]、などと言いながら花弁をむしってゆく、あの楽しい習慣を知ってはいなかった。そんなことを彼女に教える者はだれがいたろう? 彼女はただ本能から他意もなくその花をもてあそんでいたのであって、雛菊《ひなぎく》の花弁をむしり取ることはすなわち愛情を摘むことだなどとは、夢にも思っていなかった。古《いにしえ》の三人の美の女神に加えて第四の憂愁の女神というのがあり、しかもそれがほほえんでいるのだとすれば、彼女はまさしくそれであったろう。ジャン・ヴァルジャンはその花の上の小さな指先に見とれて恍惚《こうこつ》となり、その娘から発する光輝のうちにすべてを忘れていた。そばの茂みには一匹の駒鳥《こまどり》が低くささやいていた。白い雲が自由に放たれたかのように楽しく空を渡っていた。コゼットは花弁に心を集めてむしり取っていた。何かを思いふけってるらしかったが、それも楽しいことに違いなかった。と突然彼女は、白鳥のように得も言えぬゆるやかさで頭を肩の上に回らして、ジャン・ヴァルジャンに言った。「お父様、徒刑場とはどんな所でございますか?」
[#改ページ]

   第四編 地より来る天の救い


     一 外の傷、内の回復

 彼らふたりの生活は、右のようにしだいに陰鬱《いんうつ》になってきた。
 彼らにはもう一つの気晴らししか残っていなかった。それも以前では一つの幸福となっていたところのものである。すなわち、飢えた者にパンを持っていってやり、凍えた者に着物を持っていってやることだった。そして貧しい人々を訪れる時、コゼットはよくジャン・ヴァルジャンの供をして、ふたりは昔のへだてない気持ちを多少取り返すことができた。時としては、よい
前へ 次へ
全181ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング