がまったく癒《い》えると、彼はまた孤独な夕暮れの散歩を始めた。
 けれども、そういうふうにパリーの寂しいほとりをただひとりで散歩していても、何かのできごとに出合わないとは限らない。

     二 プリュタルク婆さんの解釈

 ある夕方、少年ガヴローシュは何も食べていなかった。そしてまた前日も食事をしなかったことを思い出した。そのために身体が弱ってるような気がしてきた。で何とかして夕食を得ようと考えた。彼はサルペートリエールの向こうの寂しい場所までうろついて行った。そこにはよく何かの見つけ物があった。人のいない所にはたいてい何かあるものである。歩いてると一かたまりの人家のある所に出た。オーステルリッツ村らしく思えた。
 前に何度かその辺をぶらついた時彼は、爺さんと婆さんとがいる古めかしい庭がそこにあって、庭の中にはかなりの林檎《りんご》の木が一本あるのを見ておいた。林檎の木のそばには果物《くだもの》置き場みたいな小屋があって、よく戸締まりもしてないので林檎一つくらい手に入れられそうだった。林檎一つは夕食であり、生命である。アダムの身を破滅さした物も、ガヴローシュの身を救うかも知れなかった。庭は周囲に人家の立ち並ぶのを待ってるかのように、舗石《しきいし》もない寂しい小路に接し灌木《かんぼく》でとりまかれていた。ただ生籬《いけがき》一重でへだてられてるばかりだった。
 ガヴローシュはその庭の方へ進んでいった。彼はその小路を見つけ林檎の木を認め、果物小屋を見定め、生籬を調べてみた。ただ一またぎで越えられる生籬だった。日は暮れかかってい、小路には猫《ねこ》の子一匹おらず、ちょうどいい時機だった。ガヴローシュは籬《まがき》を乗り越そうとしたが、突然それをやめた。庭の中に話し声がしていたのである。ガヴローシュは籬のすき間からのぞいた。
 彼から二歩の所、籬の内側に、ちょうど彼がすき間から入りこもうと思ってた所に、ベンチのようなふうに石をねかしてあって、石の上に例の爺《じい》さんが腰掛けており、前には婆さんが立っていた。婆さんは何かぶつぶつ言っていた。不遠慮なガヴローシュはそれに耳を傾けた。
「マブーフ様!」と婆さんは言った。
「マブーフ、おかしな名前だな、」とガヴローシュは思った。
 爺さんの方はそう呼びかけられても身動きもしなかった。婆さんは繰り返した。
「マブーフ様!」
 
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