している時に、欲するところのものを得ている時に、しかもそれは至当であり正しきものであり、自らその価を払って得たものである時に当たって、すべては去り、すべては消えうせんとするのか。コゼットを失い、自分の生命と喜びと魂とを失わんとするのか。そしてそれもただひとりのばか者がリュクサンブールの園にきて徘徊《はいかい》し出したがためである!」
かくて彼の瞳《ひとみ》は、悲しいまた尋常ならぬ輝きに満ちてきた。それはもはや他の男を見つむるひとりの男ではなく、敵を見つむるひとりの仇《あだ》ではなく、盗賊を見つむる一匹の番犬であった。
それより先のことは読者の知るところである。マリユスはなお続けて無鉄砲であった。ある日彼はウエスト街までコゼットの跡をつけた。またある日は門番に尋ねてみた。門番の方でもまた口を開いてジャン・ヴァルジャンに言った。「旦那様《だんなさま》、ひとりの変な若者があなたのことを尋ねていましたが、あれはいったい何者でしょう!」その翌日ジャン・ヴァルジャンはマリユスに一瞥《いちべつ》を与えたが、マリユスもついにそれに気づいた。一週間の後にジャン・ヴァルジャンはそこを去った。リュクサンブールへもウエスト街へも再び足をふみ入れまいと自ら誓った。彼はプリューメ街へ戻った。
コゼットは不平を言わなかった、何事も言わなかった、疑問を発しもしなかった、理由を知ろうともしなかった。彼女はもはや、意中がさとられはしないかを恐れ秘密がもれはしないかを恐れるほどになっていた。ジャン・ヴァルジャンはその種の不幸には少しも経験を持たなかった。それこそ世に可憐《かれん》なる唯一の不幸であり、しかも彼が知らない唯一の不幸であった。その結果彼はコゼットの沈黙の重大な意味を少しもさとらなかった。ただ彼はコゼットが寂しげな様子になったのを認めて、自分も陰鬱《いんうつ》になった。両者いずれにも無経験な暗闘があった。
一度彼はためしてみた。彼はコゼットに尋ねた。
「リュクサンブールへ行ってみようか?」
一条の光がコゼットの青白い顔を輝かした。
「ええ。」と彼女は言った。
ふたりはそこへ行った。三月《みつき》も経た後であった。マリユスはもうそこへ行ってはいなかった。マリユスはそこにいなかった。
翌日ジャン・ヴァルジャンはコゼットに尋ねた。
「リュクサンブールへ行ってみようか?」
彼女は悲しげ
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