なかった。
「おお、あなたほんとにうれしそうね!」
一抹《いちまつ》の影がマリユスの額にさした。彼はエポニーヌの腕をとらえた。
「一事《ひとこと》僕に誓ってくれ。」
「誓うって?」と彼女は言った、「どうしてなの。まああなたはあたしに誓わせようっていうの。」
そして彼女は笑った。
「お前のお父さんのことだ。僕に約束してくれ、エポニーヌ。その居所をお父さんに知らせはしないと誓ってくれ。」
彼女はびっくりしたような様子で彼の方へ向き直った。
「エポニーヌって! どうしてあなたはあたしがエポニーヌという名だことを知ってるの。」
「今言ったことを僕に約束してくれ。」
しかし彼女はそれも耳にしないかのようだった。
「うれしいわ。あなたあたしをエポエーヌって呼んで下すったのね。」
マリユスは彼女の両腕を一度にとらえた。
「だからどうか僕に返事をしてくれ。よく注意して、いいかね、お前が知ってるその住所をお父さんに言いはしないと僕に誓ってくれ!」
「お父さんですって、」と彼女は言った、「ええ大丈夫よ、お父さんのことなら。安心していいわよ。今監獄にはいってるの。それにまた、何であたしがお父さんのことなんか気にするもんですか。」
「でもお前は僕にそれを約束しないのか。」とマリユスは叫んだ。
「まあ放して下さいよ。」と彼女は笑い出しながら言った。「そう無茶苦茶に人を揺すってさ。えゝえゝ、約束してよ、それをあなたに誓ってよ。そんなこと訳はないわ。その住所をお父さんに言いはしません。ねえ、これでいいんでしょう、こうなんでしょう。」
「そしてまただれにも?」とマリユスは言った。
「ええだれにも。」
「ではこれから、」とマリユスは言った、「僕を連れてってくれ。」
「すぐに?」
「すぐにだよ。」
「ではいらっしゃい。おゝほんとにうれしそうね。」と彼女は言った。
四、五歩行くと、彼女は立ち止まった。
「あまりすぐそばにあなたはついて来るんだもの、マリユスさん。あたしを少し先に行かして、人に覚《さと》られないようについていらっしゃい。あなたのようなりっぱな若い男があたしのような女といっしょに歩いてるのを見られると、よくないわよ。」
この小娘がそんなふうに発した女という言葉のうちにこもってるすべては、いかなる言語をもってしても言いつくすことはできないだろう。
彼女は十歩ばかりも歩いて、また
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