立ち止まった。マリユスは追いついた。彼女は彼の方に振り向かないでわきを向いたまま言いかけた。
「あの、あなたはあたしに何か約束したのを忘れやしないわね。」
マリユスはポケットの中を探った。彼が持ってたのは父のテナルディエにやるつもりの五フランきりだった。彼はそれを取って、エポニーヌの手に握らした。
彼女は指を開いて、その貨幣を地面に落としてしまった。そして暗い顔つきをして彼を見ながら言った。
「あなたのお金なんか欲しいんじゃないの。」
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第三編 プリューメ街の家
一 秘密の家
十八世紀の中葉には、身分の高い公達《きんだち》らは公然と妾《めかけ》をたくわえていたが、中流民らは妾を置いてもそれを隠していた。でその頃、あるパリー法院長が秘密に妾をたくわえて、サン・ジェルマン郭外の今日プリューメ街と言われてる寂しいブローメ街に、当時動物合戦[#「動物合戦」に傍点]と言われていた場所から遠くない所に、「妾宅《しょうたく》」を一つ建てた。
その家は、二階建ての一構えであった。一階に二室、二階に二室、下に台所、上に化粧室、屋根下に物置き、そして家の前には庭があって、街路に開いてる大きな鉄門がついていた。庭の広さは一エーカー以上もあって、表からのぞいても庭だけしか見えなかった。そして家の後ろには、狭い中庭があり、中庭の奥には、窖《あなぐら》のついた二室の低い宿所があった。必要な場合に子供と乳母《うば》とを隠すためにこしらえられたものらしかった。宿所の後ろには秘密な隠し戸がついていて、そこを出ると路地になっていた。曲がりくねって上には屋根もなく二つの高い壁にはさまれてる長い狭い舗石《しきいし》の路地で、うまく人目に隠されていて、庭や畑地の囲いの間に消えているかのようだった。しかし実際は、それらの囲いの角《かど》を伝い曲がってる所を伝って、も一つの戸に達してるのだった。それも同じく秘密の戸で、家から四、五町の所にあって、ほとんど他の街区になってるバビローヌ街の寂しい一端に開いていた。
法院長はいつもそこからはいり込んでいった。それで、彼の動静をうかがい、彼のあとをつけ、彼が毎日ひそかにどこかへ行くのを注意する者があっても、バビローヌ街へ行くことはすなわちブローメ街へ行くことになろうなどとは、思いもつかなかったろう。うまく土地を買い込んだの
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