が一面に出てる!」と老人は考えた。「一点の雲もない、一滴の水もない!」
 そして一時もたげられた彼の頭は、再び胸の上にたれた。
 が彼はまた頭を上げ、なお空をながめながらつぶやいた。
「一滴の露でいい。少しの恵みでいい。」
 彼はも一度井戸の鎖をはずそうとしたが、その力がなかった。
 その時彼はこういう声を聞いた。
「マブーフのお爺《じい》さん、あたしが庭に水をまいてあげましょうか。」
 と同時に、獣の通るような音が籬《まがき》に起こって、藪《やぶ》の中から背の高いやせた娘らしい者が現われ、彼の前につっ立って臆面《おくめん》もなくじっと彼を見つめた。その姿は人間というよりもむしろ、薄暗がりに、生まれ出た何かの者らしかった。
 狼狽《ろうばい》しやすくまた前に言ったとおりすぐにこわがるマブーフ老人が、一言の答えもできないでいるうちに、その者は薄暗がりの中に妙に唐突な身振りをして、井戸の鎖をはずし、釣瓶《つるべ》をおろしてまた引き上げ、如露に水を一杯入れてしまった。そしてぼろぼろの裳衣をつけた跣足《はだし》のままのその幽霊は、老人の見る前で、花床の間を走り回り、あたりに生命の水をまき散らした。木の葉の上に水のまかるる音を聞いて、マブーフ老人の心は狂喜の情でいっぱいになった。今は石楠《しゃくなげ》も喜んでいるように彼に思えた。
 第一の釣瓶《つるべ》一杯をからにして、娘は更に二杯目を汲み、次に三杯目を汲んだ。そして庭中に水をやった。
 そのようにして、破れ裂けた肩掛けを角張った両腕の上にうち振りながら、まっ黒に見える姿で小道の中を歩いてるところを見ると、何となく蝙蝠《こうもり》のように思われた。
 彼女が水をまいてしまった時、マブーフ老人は目に涙をためて近づいてゆき、彼女の額に手を置いた。
「神の祝福がありますでしょう。」と彼は言った。「あなたは花の世話をなさるから天使に違いない。」
「いいえ、」と、彼女は答えた、「あたし悪魔よ。でもそんなことどうでもかまわないわ。」
 老人はその答えを待ちもせず耳に入れもしないで叫んだ。
「私はごく不仕合わせで貧乏で、あなたに何もお礼ができないのが、ほんとに残念だ。」
「でもできることがあってよ。」と彼女は言った。
「何が?」
「マリユスさんの住居を教えて下さい。」
 老人にはそれがわからなかった。
「マリユスさんだって?」
 彼はぼん
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