てる老人どもはそれを、騎馬門と徒歩門《かちもん》と呼んでいた。前に述べたとおり、プティー・ピクプュスのベルナール・ベネディクト修道女らは、昔彼女らの組合の所有地だったその墓地の特別な片隅《かたすみ》に夕方埋葬さるることが許されていた。それで墓掘り人らは、夏には日暮れに冬には夜に墓地の仕事を持っていたので、特殊な規則が設けられていた。パリーの墓地の門は、当時、日没と共にとざされることになっていて、それが市の制度の一つとなっていたので、ヴォージラールの墓地もそれに従っていた。騎馬門と徒歩門とはその鉄格子《てつごうし》が続いていて、そばに一つの小屋があった。ペロンネという建築者が建てたもので、墓地の門番が住んでいた。でそれらの鉄格子の門は、癈兵院の丸屋根の向こうに太陽が沈む時に必ずしめられた。もしその時墓地の中におくれた墓掘り人がいても、葬儀係りの役人から交付された墓掘り人の札によって出ることができた。郵便箱のようなものが、門番の窓の板戸の中についていた。墓掘り人がその箱の中に自分の札を投げ込むと、門番はその音をきいて、綱を引き、徒歩門を開いてくれた。もし札を持っていない時には、墓掘り人は自分の名を名乗ると、もう床《とこ》について眠ってることがよくある門番は、起きてきて、顔をよく見定めて、それから鍵《かぎ》で門を開いてくれた。そして墓掘り人は出られたが、十五フランの罰金を払わねばならなかった。
 このヴォージラールの墓地は、規則外のその特殊な点で、取り締まり上の統一を乱していた。そして一八三〇年後、間もなく廃せられてしまった。東の墓地といわれるモンパルナスの墓地がそのあとを継いで、それからまたその墓地に半ば属していた有名な居酒屋をも承《う》け継いだ。その居酒屋の上には木瓜《ぼけ》の実を描いた板が出ていて、ボン[#「ボン」に傍点]・コアン屋[#「コアン屋」に傍点](上等木瓜屋)という看板で、酒場の食卓と墓石との間を仕切っていた。
 ヴォージラールの墓地は、しおれた墓地ともいえるような趣があって、もう衰微していた。苔《こけ》がいっぱいはえて、花はなくなっていた。中流人はそこに埋めらるることをあまり好まなかった。貧民のような気がしたからである。ペール・ラシェーズの墓地の方は上等だった。ペール・ラシェーズに埋まることは、マホガニーの道具を備えるようなもので、高雅に思われたのである。ヴォージラールの墓地はものさびた場所で、フランス式の古い庭園のようなふうに木が植わっていた。まっすぐな道、黄楊樹、柏《かしわ》、柊《ひいらぎ》、水松《いちい》の古木の下の古墳、高い雑草。夕方などはいかにも物寂しく、きわめてわびしい物の輪郭が見られた。
 白いラシャと黒い十字架との棺車がヴォージラールの墓地の並み木道にさしかかってきた時、太陽はまだ没していなかった。棺車の後に従ってる跛者の老人は、フォーシュルヴァンにほかならなかった。
 祭壇の下の窖《あなぐら》へクリュシフィクシオン長老を葬ること、コゼットを連れ出すこと、ジャン・ヴァルジャンを死人の室《へや》に導くこと、それらはみな無事に行なわれて、何の故障も起こらなかった。
 ついでに一言するが、修道院の祭壇の下にクリュシフィクシオン長老を葬ったことは、われわれに言わすればきわめて軽微な罪にすぎない。それは一種の務めともいうべきたぐいの過ちである。修道女らは何らの不安なしにばかりでなく、また本心の満足をもってそれを行なったのである。修道院にとっては、「政府」と称するところのものは権威に対する一干渉にすぎず、常に議論の余地ある干渉にすぎない。第一は教規である。法典などはどうでもよろしい。人間よ、欲するままに法律を定むるがよい、しかしそれは汝ら自身のためにのみとどめよ。シーザーへの貢物《みつぎもの》は、常に神への貢物の残りに過ぎない。王侯といえども教義の前には何らの力をも持たないのである。
 フォーシュルヴァンは跛を引きながら、いたって満足げに棺車のあとについていった。彼の二つの秘密、彼の二重の策略、一つは修道女らとはかったこと、他はマドレーヌ氏とはかったこと、一つは修道院のためのもの、他は修道院に反するもの、その二つは同時に成功したのである。ジャン・ヴァルジャンの落ち着きは、周囲の者をも巻き込むほど力強いものだった。フォーシュルヴァンはもう成功を疑わなかった。残りの仕事は何でもないものだった。人のいい肥《ふと》っ面《つら》の墓掘り爺《じい》メティエンヌを、彼はこの二年ばかりの間に十ぺんくらいは酔っぱらわしたことがあった。彼はメティエンヌをもてあそび、掌中にまるめこみ、自分の欲するままに取り扱った。メティエンヌの頭はいつもフォーシュルヴァンのかぶせる帽子のとおりになった。それで今フォーシュルヴァンはまったく安心しきっていた。
 墓地へ通ずる並み木道に行列がさしかかった時、うれしげなフォーシュルヴァンは棺車をながめ、大きな両手をもみ合わせながら半ば口の中で言った。
「なんという狂言だ!」
 突然棺車は止まった。門のところについたのである。埋葬認可書を示さなければならなかった。葬儀人は墓地の門番に会った。その相談はたいてい一、二分の手間をとるのだったが、その間に、一人の見なれない男がやってきて、棺車のうしろにフォーシュルヴァンと並んだ。労働者らしい男で、大きなポケットのついた上衣を着て、小脇《こわき》に鶴嘴《つるはし》を持っていた。
 フォーシュルヴァンはその見知らぬ男をながめた。
「お前さんは何だね。」と彼は尋ねた。
 男は答えた。
「墓掘りだよ。」
 胸のまんなかを大砲の弾《たま》で貫かれてなお生きてる者があるとしたら、おそらくその時のフォーシュルヴァンのような顔つきをするだろう。
「墓掘り人だと!」
「そうだ。」
「お前さんが!」
「俺《おれ》がよ。」
「墓掘り人はメティエンヌ爺《じい》さんだ。」
「そうだった。」
「なに、そうだったって?」
「爺さんは死んだよ。」
 フォーシュルヴァンは何でも期待してはいたが、これはまた意外で、墓掘り人が死のうなどとは思いもよらなかった。しかしそれはほんとうである。墓掘り人だからとて死なないとは限らない。他人の墓穴を掘ることによって人はまた自分の墓穴をも掘る。
 フォーシュルヴァンはぽかんとしてしまった。ようやくにして、これだけのことを口ごもった。
「そんなことがあるだろうか。」
「そうなんだよ。」
「だが、」と彼は弱々しく言った、「墓掘り人はメティエンヌ爺《じい》さんだがな。」
「ナポレオンの後にはルイ十八世が出で、メティエンヌの後にはグリビエが出る。おい、俺《おれ》の名はグリビエというんだ。」
 フォーシュルヴァンはまっさおになって、そのグリビエをながめた。
 背の高いやせた色の青い男で、まったく葬儀にふさわしい男だった。あたかも医者に失敗して墓掘り人となった形だった。
 フォーシュルヴァンは笑い出した。
「ああ、何て変なことが起こるもんかな! メティエンヌ爺さんが死んだって! メティエンヌじいさんは死んだが、小ちゃなルノアール爺さんは生きてる。お前さんは小ちゃなルノアール爺さんを知ってるかね。一杯六スーのまっかな葡萄酒《やつ》がはいってる壜《びん》だよ。スュレーヌの壜だ。ほんとうによ、パリーの本物のスュレーヌだ。ああメティエンヌ爺さんが死んだって。かわいそうなことをした。おもしろい爺さんだったよ。だがお前さんも、おもしろい人だね。おいそうじゃないかい。一杯飲みにゆこうじゃないかね、これからすぐに。」
 男は答えた。「俺は学問をしたんだ。第四級まで卒《お》えたんだ。酒は飲まない。」
 棺車は動き出して、墓地の大きな道を進んでいった。
 フォーシュルヴァンは足をゆるめた。その跛は、今では不具のためよりも心配のための方が多かった。
 墓掘り人は彼の先に立って歩いていた。
 フォーシュルヴァンは、も一度その待ち設けないグリビエの様子をながめた。
 若いが非常に老《ふ》けて見え、やせてはいるがごく強い、そういう種類の男だった。
「おい。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
 男はふり返った。
「私は修道院の墓掘り人だよ。」
「仲間だね。」と男は言った。
 学問はないがごく機敏なフォーシュルヴァンは、話の上手な恐るべき相手であることを見てとった。
 彼はつぶやいた。
「それではメティエンヌ爺《じい》さんは死んだんだね。」
 男は答えた。
「そうだとも。神様はその満期の手帳をくってみられたんだ。するとメティエンヌ爺さんの番だった。で爺さんは死んだのさ。」
 フォーシュルヴァンは機械的にくり返した。
「神様が……。」
「神様だ。」と男はきっぱり言い放った。「哲学者に言わせると永劫《えいごう》の父で、ジャコバン党に言わせると最高の存在だ。」
「ひとつ近づきになろうじゃないかね。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「もう近づきになってるよ。君は田舎者《いなかもの》で、俺《おれ》はパリーっ児だ。」
「だがいっしょに酌《く》みかわさないうちはへだてが取れないからな。杯をあける者は心を打ち明けるというものだ。いっしょに飲みにこないかね。断わるもんじゃないよ。」
「仕事が先だ。」
 これはとうていだめだ、とフォーシュルヴァンは考えた。
 修道女らの埋まる片すみにゆく小道にはいるには、もう数回車輪が回るだけだった。
 墓掘り人は言った。
「おい君、俺《おれ》は七人の子供を養わなけりゃならないんだ。奴《やつ》らが食わなけりゃならないからして、俺は酒を飲んじゃおれないんだ。」
 そして彼は、まじめな男が名句を吐く時のような満足さでつけ加えた。
「子供らの空腹は俺の渇《かわ》きの敵さ。」
 棺車は一群の糸杉の木立ちを回って、大きな道を去り、小道をたどり、荒地にはいり、茂みの中に進んでいった。それはもうすぐに埋葬地に着くことを示すものだった。フォーシュルヴァンは足をゆるめた。しかし棺車の進みを遅らすことはできなかった。幸いにも地面は柔らかで、かつ冬の雨にぬれていたので、車の輪にからんでその進みを重くした。
 彼は墓掘り人に近寄った。
「アルジャントゥイュの素敵な酒があるんだがな。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「君、」と男は言った、「俺はいったい墓掘り人なんかになる身分ではないんだ。親父《おやじ》は幼年学校の門衛だった。そして俺に文学をやらせようとした。ところが運が悪かった。親父は相場で損をした。そこで俺は文人たることをやめなければならなかったんだ。それでもまだ代書人はしてるよ。」
「ではお前さんは墓掘り人ではないんだね。」とフォーシュルヴァンは言った。弱くはあったがその一枝を頼りとしてつかまえたのである。
「両方できないことはないさ。兼任してるんだ。」
 フォーシュルヴァンはその終わりの一語がわからなかった。
「飲みにゆこうじゃないか。」と彼は言った。
 ここに一言注意しておく必要がある。フォーシュルヴァンは気が気ではなかったが、とにかく酒を飲もうと言い出したのである。しかしだれが金を払うかという一点については、はっきりさしてはいなかった。いつもはフォーシュルヴァンが言い出して、メティエンヌ爺《じい》さんが金を払った。一杯やろうという提議は、新しい墓掘り人がきたという新たな事情から自然に出て来ることで、当然のことではあったが、しかし老庭番は、下心《したごころ》なしにでもなかったが、いわゆるラブレーの十五分間([#ここから割り注]訳者注 飲食の払いをしなければならない不愉快な時[#ここで割り注終わり])をあいまいにしておいた。ひどく心配はしていたが、進んで金を払おうという気にはなっていなかった。
 墓掘り人は優者らしい微笑を浮かべながら言い進んだ。
「食わなければならないからね。それで俺はメティエンヌ爺さんのあとを引き受けたのさ。まあ一通り学問をすれば、もう哲学者だ。手の働きをしてる上に俺は頭の働きをもしてるんだ。セーヴル街の市場に代書人の店を持っている。君はパラプリュイの市場を知ってるか
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