その時フォーシュルヴァンは、ジャン・ヴァルジャンがはいることを許されたのは、自分が組合のために尽す仕事の報酬であることを、説明してきかした。葬儀に参与するのは自分の職務の一つであること、自分は棺に釘《くぎ》を打ち墓地で墓掘り人に立ち会わねばならぬこと。今朝死んだ修道女は、長い間寝床にしていた柩《ひつぎ》に納めてもらいたいと願い、礼拝堂の祭壇の下にある窖《あなぐら》のうちに葬ってもらいたいと願ったこと。それは警察の規則で禁じられてることだが、何事もこばめないほどの聖《きよ》い修道女の願いであったこと。修道院長と声の母たちとは相談して、死者の希望どおりにしてやろうときめたこと。政府に対しては済まないが仕方ないこと。自分が室の中で柩に釘を打ち、礼拝堂の中で石の蓋《ふた》を起こし、窖の中に死人をおろすのであること。そしてそのお礼として、弟を庭番に姪《めい》を寄宿生に、二人とも家に入れることを院長が許したこと。弟というのはマドレーヌ氏であり姪というのはコゼットであること。明晩墓地で表面上の埋葬をした後、弟をつれて来るようにと、院長が彼に言ったこと。しかしマドレーヌ氏は外に出ていなければ、外から連れ込むことができないこと。そこに第一の困難があること。それからまた第二の困難があること、すなわち空棺が。
「その空棺とは何かね。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
フォーシュルヴァンは答えた。
「役所の棺ですよ。」
「どういう棺で、またどういう役所かね。」
「修道女が死にますと、役所の医者がきて、修道女が死んだと言うんです。すると政府から棺を送ってきます。そして翌日、その棺を墓地に運ぶために、車と人夫とをよこします。ところが人夫がやってきて棺を持ち上げてみると、中には何もはいっていないということになるんです。」
「何か入れたらいいだろう。」
「死人をですか。そんなものはありません。」
「いいや。」
「では何を入れます。」
「生きた人をさ。」
「どんな人をですか。」
「私をさ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
腰掛けていたフォーシュルヴァンは、自分の椅子《いす》の下に爆烈弾が破裂したかのように飛び上がった。
「あなたを!」
「なぜいけないんだ。」
ジャン・ヴァルジャンは冬空の中の光のように珍しくほほえんだ。
「ねえ、クリュシフィクシオン長老が死なれたとお前さんが言った時、私はつけ加えて言ったではないか、そしてマドレーヌさんも葬られたと。それはこのことなんだよ。」
「あああなたは笑っていらっしゃる。本気でおっしゃってはいなさらないんですね。」
「本気だとも、ここから出なければならないんだろう。」
「そうですよ。」
「私にもまた負《お》い籠《かご》と覆いとを見つけてくれと、言ったじゃないか。」
「それで?」
「その籠《かご》は樅《もみ》の板でできていて、覆《おお》いは黒いラシャなんだ。」
「いや第一それは白いラシャですよ。修道女たちは白くして葬られるんです。」
「では白いラシャにするさ。」
「あなたは、マドレーヌさん、ほんとに変わった人です。」
まるで徒刑場の荒々しい大胆な策略ででもあるようなそんな考案が、あたりの平穏な事物から浮かんできて、彼のいわゆる「修道院の杓子定規《しゃくしじょうぎ》」の中に入り込んでくるのを見ることは、フォーシュルヴァンにとってはいかにも意外で、サン・ドゥニ街の溝《みぞ》の中に鴎《かもめ》が魚をあさってるのを見つけた通行人にも似た驚きの情を、感じたのである。
ジャン・ヴァルジャンは続けて言った。
「人に見つからずにここから出ることが要件なんだ。その一つの方法さ。しかしまず私に様子を知らしてくれ。いったいどういうぐあいにされるのかね。その棺はどこにあるのかね。」
「空《から》の方ですか。」
「そうだ。」
「死人の室《へや》と呼ばれてます下の室です。二つの台の上にのっていまして、とむらいのラシャがかぶせてあります。」
「棺の長さはどれくらいある?」
「六尺ばかりです。」
「その死人の室というのはどういう所だ?」
「一階にある室《へや》で、庭の方に格子窓《こうしまど》がありますが、それは外から板戸でしめてあります。戸口が二つありまして、一つは修道院に、一つは会堂に続いています。」
「会堂というのは?」
「表に続いてる会堂で、だれでもはいれる会堂です。」
「君はその死人の室の二つの戸口の鍵《かぎ》を持ってるかね。」
「いいえ。私はただ修道院へ続いてる戸口の鍵きり持っていません。会堂へ続いてる方の鍵は門番が持っています。」
「門番はいつその戸口を開くのかね。」
「棺を取りにきた人夫どもを通させる時だけしか開きません。棺が出てゆくと、戸はまたしまるんです。」
「棺に釘《くぎ》を打つのはだれだね。」
「私です。」
「棺にラシャをかけるのは?」
「私です。」
「君一人だけで?」
「警察の医者のほかは、だれも死人の室にはいることはできません。壁にもちゃんと書いてあります。」
「今晩、修道院の人たちが寝静まったころ、私をその室に隠してもらえまいかね。」
「それはできません。けれどその死人の室に続いてる小さな暗い物置きにならあなたを隠しておけます。そこは私の埋葬の道具を入れて置く所で、私がその番人で鍵《かぎ》を持っています。」
「明日何時ごろ棺車は棺を迎えに来るのかね。」
「午後の三時ごろです。埋葬はヴォージラールの墓地で行なわれますが、日が暮れる少し前です。すぐ近くじゃありません。」
「では私は君の道具部屋に、夜と朝の間隠れていよう。それから食物は? 腹がすくだろう。」
「私が何か持っていってあげましょう。」
「君は二時には、私を棺の中に釘《くぎ》づけにしにやって来るんだね。」
フォーシュルヴァンはしり込みして、指の節を鳴らした。
「それはどうも、できませんな。」
「なに、金槌《かなづち》を取って板に四五本釘を打つだけだ。」
繰り返して言うが、フォーシュルヴァンにとって異常なことも、ジャン・ヴァルジャンにとっては何でもないことだった。ジャン・ヴァルジャンは最も危険な瀬戸ぎわをも幾度か通ってきたのである。だれでも監獄にはいったことのある者は、脱走の場所の広狭に応じて身を縮めるの術を知っている。病人が生きるか死ぬかの危機にとらわれてるように、囚人も逃走の念にとらわれている。脱走は回復である。回復せんがためには人は何事をも辞せない。行李《こうり》のような四角なものの中に釘づけにされて運び出され、長い間箱の中に生きており、空気もない所に空気を見い出し、幾時間もの間呼吸を倹約し、死なないくらいに息をつめる、そんなことはジャン・ヴァルジャンの恐ろしい能力の一つだった。
そのうえ、棺の中に生きた人間を入れること、囚徒のやるようなその手段は、また皇帝の手段だった。アウスティン・カスティーレホーという牧師の書いたものによれば、それはカール大帝の用いた方法だった。彼は退位の後、最後に、も一度プロンベスという婦人に会わんために、棺の中に彼女を入れて、自分のはいってるユステの修道院を出入さしたということである。
フォーシュルヴァンは少し心を落ち着けて叫んだ。
「それでも、どうして息ができましょう。」
「息はできるだろう。」
「あの箱の中で! 私なんか思っただけで息がつまるようです。」
「きりがあるだろう。口のあたりに方々小さな穴をあけておいてくれ、そしてまた上の板も、あまりきっかりしまらないように釘《くぎ》を打ってもらおう。」
「よろしゅうござんす。そしてもし咳《せき》が出たり、嚔《くしゃみ》が出たりしましたら。」
「一心に逃げようとする者は、咳や嚔はしないものだ。」
そしてジャン・ヴァルジャンはつけ加えた。
「フォーシュルヴァンさん、決心しなければならないんだ、ここでつかまるか、棺車で出るか、二つに一つを。」
少し開きかけてる扉《とびら》の間に猫《ねこ》が止まって躊躇《ちゅうちょ》する癖のあるのを、だれでも認めることがあるだろう。早くおはいりよ! とだれでも言わない者はあるまい。それと同じく人間のうちにも、前に一事件が半ば口を開いている時、運命のため突然その口が閉ざされて身をつぶされる危険をも顧みずに、二つの決断の間に迷ってたたずむ傾向を持った人がいるものである。あまりに用心深い者は、猫のようであるにかかわらず、また猫のようであるがために、時とすると大胆な者よりかえって多くの危険に身をさらすに至る。フォーシュルヴァンはそういう狐疑的《こぎてき》な性質であった。けれどもジャン・ヴァルジャンの冷静は、ついに彼を納得さした。彼はつぶやいた。
「実のところ、ほかに方法もありませんからな。」
ジャン・ヴァルジャンは言った。
「ただ心配なのは、墓地でどういうことになるかだ。」
「そのことなら私が心得ています。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。「棺から出ることをあなたが受け合いなさるなら、あなたを墓穴から引き出すことは私が受け合います。墓掘りの男は、私の知ってる者のうちでの大酒飲みです。メティエンヌ爺《じい》さんといって、もう老耄《おいぼれ》です。その墓掘りは墓穴の中に死人を入れますが、私は彼を自分のポケットの中にまるめ込んでやります。こういうふうにいたしましょう。薄暗くなる前に、墓地の門がしまる四五十分前に、向こうに行きつくでしょう。棺車は墓穴の所まで進んでゆきます。私がついてゆきます。私の仕事ですから、ポケットの中に金槌《かなづち》と鑿《たがね》と釘抜《くぎぬ》きとを入れて置きます。棺車が止まって、人夫どもがあなたの棺を繩でゆわえて、穴におろします。牧師が祈祷《きとう》をとなえ、十字を切り、聖水をまき、そして行ってしまいます。私はメティエンヌ爺さんと二人きりになります。まったく私とは懇意なんです。彼は酔っぱらってるか、いないか、どちらかです。もし酔っぱらっていなかったら、言ってやりましょう、ボン・コアンの家がしまらないうちに一杯引っかけてこようや。私は彼を引っ張っていって酔っぱらわせます。メティエンヌ爺さんを酔っぱらわすには造作はありません。いつでもいいかげん酔っていますから。私は彼をテーブルの下に寝かし、墓地にはいる札を取り上げてしまって、一人で帰ってきます。そうすればもう私一人きりいないというわけになるんです。もし彼が初めから酔っぱらっていたら言ってやります。もう帰っていいや、私がお前の分もしてやるから。そう言えば彼は帰っていきます。そして私はあなたを穴から引き出してあげましょう。」
ジャン・ヴァルジャンは彼に手を差し出した。フォーシュルヴァンはいかにも質朴な田舎者《いなかもの》の感動をもって急いでそれを握りしめた。
「それできまった、フォーシュルヴァンさん。万事うまくゆくだろう。」
「何かくい違いさえしなければ。」とフォーシュルヴァンは考えた。「もし大変なことにでもなったら!」
五 大酒のみにては不死の霊薬たらず
翌日太陽が西に傾いたころ、メーヌ大通りのまばらな行ききの者は、頭蓋骨《ずがいこつ》や脛骨《けいこつ》や涙などの描いてある古風な棺車の通行に対して、みな帽子をぬいだ。棺車の中には、白いラシャに覆われた柩《ひつぎ》があって、両腕をひろげた大きな死人のような黒い太い十字架が上に横たえてあった。喪布を張った幌馬車《ほろばしゃ》が一つそのあとに続いて、白い法衣を着た一人の牧師と、赤い帽子をかぶった歌唱の一人の子供とが乗ってるのが見えた。黒い袖口《そでぐち》のついた鼠色《ねずみいろ》の制服を着ている二人の葬儀人夫が、棺車の左右に従っていた。その後ろに、労働者のような服装をした跛者の老人がついていた。その行列はヴォージラールの墓地の方へ進んでいった。
老人のポケットから、金槌《かなづち》の柄や鋭利な鑿《たがね》の刃や釘抜《くぎぬ》きの二つの角などがはみ出ていた。
ヴォージラールの墓地は、パリーの墓地のうちで例外のものとなっていた。それは特別の用に供されていて、したがって正門と中門とがあり、その一郭で古い言葉を守っ
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