ね。クロア・ルージュの料理女どもは皆俺の所へ頼みに来る。俺はその色男どもへ贈る手紙を書いてやるんだ。朝にはやさしい恋文を書き、夕になれば墓穴を掘る。ねえ、そういうのが世の中さ。」
棺車は進んでいた。フォーシュルヴァンは心痛の頂上に達して四方を見回した。汗の大きな玉が額から流れた。
「だが、」と墓掘り人はなお続けた、「二人の主人には仕えることができないものだ。俺《おれ》もペンと鶴嘴《つるはし》といずれかを選ぶべきだ。鶴嘴は物を書く手を痛めるからね。」
棺車は止まった。
歌唱の子供が喪の馬車からおり、次に牧師もおりた。
棺車の小さな前の車輪の一つは、うずたかい土の上に少し上がっていた。その向こうに口を開いてる墓穴が見えていた。
「なんて狂言だ!」とフォーシュルヴァンは唖然《あぜん》としてくり返した。
六 四枚の板の中
棺の中にいたのはだれであるか? 読者の知るとおり、ジャン・ヴァルジャンであった。
ジャン・ヴァルジャンはその中で生きておれるだけの準備をしておいた、そしてわずかに呼吸をしていた。
本心の安静がいかにその他のいっさいのものの安静をもたらすかは、実に不思議なほどである。ジャン・ヴァルジャンが考えた計画は、前日来着々としてつごうよく進んでいた。そして彼はフォーシュルヴァンと同じくメティエンヌ爺《じい》さんを当《あて》にしていた。彼は最後の成功を疑わなかった。これほど危険な状態でしかもこれほど完全な安心は、かつて見られないことだった。
柩《ひつぎ》の四方の板からは、恐ろしい平安の気が発していた。死人の休息に似たある物が、ジャン・ヴァルジャンの落ち着きのうちにはいって来るかのようだった。
棺の底から彼は、死と戯れてる恐るべき芝居の各部分をたどることができ、また実際たどっていた。
フォーシュルヴァンが上の板に釘《くぎ》を打ち終わってから間もなく、ジャン・ヴァルジャンは持ち出されるのを感じ、次に馬車で運ばれるのを感じた。動揺の少なくなったことで、舗石《しきいし》から堅い地面へ出たことを、すなわち街路を通りすぎて大通りにさしかかったことを感じた。重々しい響きで、オーステルリッツ橋を渡ったことを察した。初めちょっと止まったことで、墓地にはいったことを知った。二度目に止まった時、もう墓穴だなと彼は思った。
突然人の手が棺をとらえたことを彼は感じた。それから棺板の上をこするがさがさした音を感じた。棺を穴の中におろすためにまわりを繩《なわ》でゆわえてるのだと彼は察した。
それから彼は目が廻るような気がした。
たぶん人夫どもと墓掘り人とが棺をぐらつかして足より頭を先にしておろしたのであろう。そして程なくまた水平になって動かなくなった時、彼は初めてすっかり我に返ることができた。穴の底に達したのである。
彼はさすがに一種の戦慄《せんりつ》を覚えた。
冷ややかでおごそかな一つの声が上の方で起こった。自分にわからないラテン語の言葉が、その一語一語とらえらるるくらいゆっくりと響いて来るのを彼は聞いた。
「塵《ちり》のうちに眠る者ら[#「のうちに眠る者ら」に傍点]、やがて目ざむるに至らん[#「やがて目ざむるに至らん」に傍点]、ある者は永遠の生命に[#「ある者は永遠の生命に」に傍点]、またある者は汚辱に[#「またある者は汚辱に」に傍点]。常に[#「常に」に傍点]([#ここから割り注]訳者補 まことを[#ここで割り注終わり])見んがためなればなり[#「見んがためなればなり」に傍点]。」
一つの子供の声が言った。
「深き淵より[#「深き淵より」に傍点]。([#ここから割り注]訳者補 主よ我は爾を呼ばわりぬ[#ここで割り注終わり])」
重々しい声がまた初めた。
「主よ彼に永遠の[#「主よ彼に永遠の」に傍点]休息《やすらい》を与えたまえ[#「を与えたまえ」に傍点]。」
子供の声が答えた。
「恒《つね》なる光は彼に輝かんことを[#「なる光は彼に輝かんことを」に傍点]。」
その時彼は身をおおうている板の上に、雨だれのような静かな音を聞いた。たぶんそれは聖水だったのだろう。
彼は考えた。「もうすぐに終わるだろう。も少しの[#「も少しの」は底本では「もし少しの」]辛抱だ。牧師が立ち去る、フォーシュルヴァンはメティエンヌを飲みに引っ張ってゆく、自分は一人になる。それからフォーシュルヴァンが一人で帰ってくる。そして自分は穴から出る。も少しの間だ。」
重々しい声が言った。
「安らかに[#「安らかに」に傍点]憩《いこ》わんことを[#「わんことを」に傍点]。」
そして子供の声が言った。
「アーメン[#「アーメン」に傍点]。」
ジャン・ヴァルジャンは耳をそばだてながら、人の足音らしいものが遠ざかってゆくのを知った。
「皆立ち去ってゆくのだな。」と彼は考えた。「もう自分一人だ。」
するとたちまち頭の上に、雷が落ちたかと思われるような音が聞こえた。
それは一すくいの土が棺の上に落ちた音だった。
次にまた一すくいの土が落ちてきた。
彼が息をしていた穴の一つは、そのためにふさがってしまった。
第三の士が落ちてきた。
次に第四の土が。
いかに強い男にとっても、それはあまりにもひどすぎた。ジャン・ヴァルジャンは気を失った。
七 札をなくすなという言葉の起原
ジャン・ヴァルジャンがはいっていた棺の上の方では次のようなことが起こったのである。
棺車が立ち去った時、そして牧師と歌唱の子供とがまた馬車に乗って帰って行った時、墓掘り人から目を離さなかったフォーシュルヴァンは、墓掘り人が身をかがめて、うずたかい土の中にまっすぐにつきさしてある※[#「金+産の旧字体」、第3水準1−93−37]《くわ》を手に取るのを見た。
その時フォーシュルヴァンは最後の決心をした。
彼は墓穴と墓掘り人との間につっ立ち、両腕を組んで、そして言った。
「金は私《わし》が払う。」
墓掘り人は驚いて彼をながめ、そして答えた。
「何のことだよ?」
フォーシュルヴァンは繰り返した。
「金は私が払う。」
「何さ?」
「酒だよ。」
「何の酒だ?」
「アルジャントゥイュだ。」
「アルジャントゥイュってどこにあるんだ。」
「ボン・コアンの家《うち》にある。」
「なんだばかにするない!」と墓掘り人は言った。
そして彼は一すくいの土を棺の上にほうり込んだ。
棺はうつろな音を返した。フォーシュルヴァンはよろめいて、自分も墓穴の中にころげ落ちそうな気がした。喉《のど》をしめられたようなしわがれ声を交じえて彼は叫んだ。
「おい、ボン・コアンの戸がしまらないうちにさ!」
墓掘り人はまた※[#「金+産の旧字体」、第3水準1−93−37]《くわ》で土をすくった。フォーシュルヴァンは言い続けた。
「私が払う。」
そして彼は墓掘り人の腕をつかんだ。
「まあきいてくれ。私は修道院の墓掘りだ。お前さんの手助けにきてるんだ。仕事は晩にすればいい。まあ一杯飲みに行ってからにしようじゃないか。」
そう言いながらも、絶望的にしつこく言い張りながらも、彼は悲しい考えを心のうちに浮かべていた。「そして酒は飲むとしても、果して酔っ払うかしら?」
「なあに、」と墓掘り人は言った、「どうしても飲もうというんなら、飲んでもいいさ。飲もうよ。だが仕事のあとだ、前はいけない。」
そして彼は※[#「金+産の旧字体」、第3水準1−93−37]《くわ》を動かした。フォーシュルヴァンはそれを引き止めた。
「六スーのアルジャントゥイュだよ。」
「またか、」と墓掘り人は言った、「鐘撞《かねつ》きみたいな奴《やつ》だな。いつも同じことばかりぐずってやがる。いいかげんにしろよ。」
そして彼は第二の一すくいをほうり込んだ。
フォーシュルヴァンはもう自分で自分の言ってることがわからないほどになっていた。
「まあ一杯やりにこいったら、」と彼は叫んだ、「金は私が払うんだから。」
「赤ん坊を寝かしてからさ。」と墓掘り人は言った。
彼は第三の一すくいをほうり込んだ。
それから彼はまた※[#「金+産の旧字体」、第3水準1−93−37]を土の中に突き入れてつけ加えた。
「おい今夜は冷えるぞ。何もかぶせないでゆくと、死骸が泣き出して追っかけて来るぜ。」
その時墓掘り人は※[#「金+産の旧字体」、第3水準1−93−37]で土をすくいながら身をかがめた、そして上衣のポケットの口が大きく開いた。
フォーシュルヴァンの茫然《ぼうぜん》とした目つきは機械的にその中に止まって、そこにすえられた。
太陽はまだ地平線の向こうに落ちていなかった。そしてまだかなり明るかったので、その口を開いたポケットの底に何やら白いものが見て取られた。
ピカルディーの田舎者《いなかもの》の目が有し得るすべての輝きが、フォーシュルヴァンの瞳《ひとみ》をよぎった。ある考えが彼に浮かんできたのである。
墓掘り人が※[#「金+産の旧字体」、第3水準1−93−37]《くわ》で土をすくうのに一心になって気づかないうちに、彼はうしろからそのポケットの中に手を差し入れて、底にある白いものを引き出した。
墓掘り人は第四の一すくいの土を墓穴の中に送った。
彼が第五にまた一すくいするためふり返った時、フォーシュルヴァンは落ち着き払ってその顔をながめ、そして言った。
「時にお前さんは、札を持ってるかね。」
墓掘り人はちょっと手を休めた。
「何の札だ?」
「日が入りかかってるよ。」
「いいさ、おはいんなさいとして置くさ。」
「墓地の門がしまるよ。」
「だから?」
「札は持ってるかと言うんだ。」
「ああ俺《おれ》の札か!」と墓掘り人は言った。
そしてポケットをさぐった。
一つのポケットをさぐって、またも一つのをさぐった。それからズボンの内隠しを、一方をさがし一方を裏返した。
「ないぞ。」と彼は言った。「札がない。忘れてきたのかな。」
「十五フランの罰金だ。」とフォーシュルヴァンは言った。
墓掘り人は草色になった。青白い男が更に青くなると、草色になるものだ。
「何ということだ!」と彼は叫んだ。「十五フランの罰金!」
「五フラン銀貨三つだ。」とフォーシュルヴァンは言った。
墓掘り人は※[#「金+産の旧字体」、第3水準1−93−37]《くわ》を取り落とした。
こんどこそはフォーシュルヴァンの番になった。
「なにお前さん、」とフォーシュルヴァンは言った、「そう心配することはないさ。首でもくくって墓を肥やそうというわけじゃあるまいしね。十五フランは十五フランだ。それにまた払わないですむ方法もあるさ。お前さんは新参だが、私は古狸《ふるだぬき》だ。何もかもよく承知してるよ。うまいことを教えてやろう。ただこれだけはどうにもならない、日が入りかかってることだけは。向こうの丸屋根に落ちかかってる。もう五分とたたないうちに墓地はしまるだろう。」
「そうだ。」と墓掘り人は答えた。
「これから五分間では、この墓穴をいっぱいにするだけの時間はない、ずいぶん深い穴だからな。そして門がしまらないうちに出るだけの時間はない。」
「そのとおりだ。」
「そうすれば十五フランの罰金だ。」
「十五フラン。」
「だがまだ時間はある……。いったいお前さんはどこに住んでるんだ。」
「市門のすぐそばだ。ここから十五分ぐらいかかる。ヴォージラール街八十九番地だ。」
「急げばすぐに門を出るだけの時間はある。」
「そうだ。」
「門を出たら、家に駆けて行って、札を持って帰って来るさ。墓地の門番があけてくれる。札さえあれば、一文も払わなくてすむ。そして死骸《しがい》を埋めればいいわけだ。死骸が逃げ出さないように、その間私が番をしていてあげよう。」
「それで俺《おれ》は助かる。」
「早く行けよ。」とフォーシュルヴァンは言った。
墓掘り人は夢中に感謝して、彼の手を取って振り動かし、そして駆け出していった。
墓掘り人が茂みの中に見えなくなると、フォーシュルヴァンはその足音が聞こえなくなる
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