繩《なわ》が必要になってきた。ジャン・ヴァルジャンはそれを持っていなかった。ポロンソー街のそのま夜中に、どこに繩が得られよう。もしその時にジャン・ヴァルジャンが一王国を有していたとしたら、確かに彼はそれをも一条の繩のために惜しみはしなかったろう。
 あらゆる危急な場合にはそのひらめきがあるもので、あるいは人を盲目にし、あるいは人の目を開かせる。
 ジャン・ヴァルジャンの絶望した目は、ふとジャンロー袋町の街燈の柱に落ちた。
 その当時、パリーの街路にはまだガス燈がなかった。夜になるとそこここに立てられてる反照燈をつけるのであったが、それは町の一方から他方へ引っ張られて柱の※[#「木+吶のつくり」、第3水準1−85−54]眼《ほぞあな》にはめられてる一本の綱で、上げられたりおろされたりするのであった。その綱が巻かれる軸は、ランプの下の小さな鉄の箱の中にはめこんであって、箱の鍵《かぎ》は点燈夫が持っており、また綱の方はある高さまで金属を被《き》せてまもってあった。
 ジャン・ヴァルジャンは命がけの勢いで、街路を一飛びに飛び越し、袋町にはいり、ナイフの先で、小さな箱の閂子《かんぬき》をはずし、そしてすぐにコゼットの所へ戻ってきた。彼は一筋の綱を手にしていた。あらゆる手段を見いだすそれらの陰惨な人々は、運命と争うおり、急速に仕事をやってのけるものである。
 前に説明したとおり、その夜街燈はともされていなかった。ジャンロー袋町のランプももとよりほかのと同じく消えていた。でそのそばを通っても、ランプが普通の所についていないことに目をとめる者はなかったろう。
 そのうちにも、その時と場所と暗やみと、ジャン・ヴァルジャンが夢中になってることと、その異様な態度やあちらこちら飛び回ってることなどは、しだいにコゼットを不安ならしめていた。ほかの子供だったらもうよほど前から大声に泣き出していたろう。がコゼットはただジャン・ヴァルジャンのフロックの裾につかまっていた。しだいに近づいてくる巡邏《じゅんら》の兵士らの足音は、ますますはっきり聞こえていた。
「お父さん、」とコゼットは低く言った、「あたしこわい。向こうから来るのはだれなの?」
「しッ! テナルディエの上《かみ》さんだよ。」と不幸な男は答えた。
 コゼットは身を震わした。彼はつけ加えた。
「黙っておいで。私《わたし》のするままにしておいで。声を出したり、泣いたりすると、テナルディエの上さんが待ち受けてるよ。お前を取り戻しにきてるんだよ。」
 それから、別に急ぎもせず、しかしすべてを一度でやってのけるようにして、しっかりした簡単な正確さで、それも巡邏とジャヴェルとが刻一刻に押し寄せつつある危急なおりなのでいっそう驚くべきことではあったが、彼は自分のえり飾りをはずし、それをコゼットの両腋《りょうわき》の下に身体を痛めないように注意して結わえ、海員たちが燕結《つばめむす》びと称する結び方でその襟飾《えりかざ》りを綱の一端に結わえ、綱の他の一端を口にくわえ、靴と靴足袋とをぬいで壁の向こうに投げ込み、築塀《ついべい》の上にのぼり、そして壁と切阿《きりづま》との角をよじのぼりはじめたが、あたかも踵《かかと》と肱《ひじ》とを梯子《はしご》にかけてるかと思われるほど確実自在なものだった。半分時とたたないうちに彼は壁の上にはい上がった。
 コゼットは呆気《あっけ》にとられて一言も口をきかずに彼を見守っていた。ジャン・ヴァルジャンの言いつけと、テナルディエの上さんという名前とが、彼女を氷のように冷たく縮み上がらしていた。
 たちまち彼女は、ジャン・ヴァルジャンが声を低めながら自分に呼びかけてるのを聞いた。
「壁に背を向けなさい。」
 彼女はそのとおりにした。
「口をきいてはいけないよ、こわがってはいけないよ。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。
 そして彼女は地面から引き上げられるのを感じた。
 自ら気がつかないうちに彼女は壁の上にきていた。
 ジャン・ヴァルジャンは彼女をとらえて背にかつぎ、その小さな両手を左の手で押さえ、腹ばいになって、壁の上を切り取られた断面の所までやって行った。そこには彼の推察どおり、一つの小屋があって、木の塀《へい》の上から屋根がさし出て、ゆるやかな勾配《こうばい》をなして地面に近くたれていて、菩提樹《ぼだいじゅ》の木とすれすれになっていた。
 仕合わせなことだった。というのは、壁はその内部の方では外の街路の方よりもずっと高くなっていた。ジャン・ヴァルジャンは自分の下の方ごく深くに地面を見とめた。
 彼が屋根の斜面の所へ達して、壁の頂から離れようとした時に、激しい音が巡邏《じゅんら》のやってきたことを示した。ジャヴェルの雷のような声が聞こえた。
「袋町をさがしてみい! ドロア・ムュール街にもピクプュス小路にも見張りがついてる。きっと袋町のうちにいるに違いない!」
 兵士らはジャンロー袋町のうちにはいり込んで行った。
 ジャン・ヴァルジャンはコゼットを負いながら屋根をすべりおり、菩提樹に取りついて地面に飛びおりた。恐怖のためか元気を出したのか、コゼットは息をも潜めていた。両手には少し擦過傷《すりきず》がついていた。

     六 謎《なぞ》のはじめ

 ジャン・ヴァルジャンがはいった所は、ごく広い異様なありさまをした一種の庭であった。特に冬にそして夜分にながめるためにこしらえられたかと思われるほど寂しい庭であった。長方形をなしていて、奥には大きな白楊樹《はこやなぎ》の並んだ通路があり、すみずみにはかなり高い木立ちがあり、まんなかはうち開けた空地になっていて、一本のごく大きな樹木、大きな藪《やぶ》のように込み合って曲がりくねった数本の果樹、四角な野菜畑、月の光に輝いてる瓜畑《うりばたけ》の鐘形覆《しょうけいおお》い、古い水溜《みずだめ》などが、それと見えていた。所々に石の腰掛けがあったが、苔《こけ》に黒くなってるようだった。道にはほの暗い小さな灌木《かんぼく》が立ち並んでまっすぐに通じていた。庭の半ばは雑草が生《お》い茂り、残りは青い苔《こけ》におおわれていた。
 ジャン・ヴァルジャンのそばには、彼が屋根を伝っておりてきた小屋があり、薪《まき》がつみ重ねてあり、その後ろに壁にくっついて石の立像が一つあった。石像の欠け損じた顔は変な形の仮面のようになって、暗やみのうちにぼんやり見えていた。
 小屋はもう荒廃してしまっていて、壁の落ちた幾つかの室《へや》が認められ、その一つはいっぱい物がつまっていて物置きに使われてるらしかった。
 ピクプュス小路の方まで折れ曲がっているドロア・ムュール街の大きな建物は、直角をなした二つの正面で庭を囲んでいた。その内側の正面は、外部の正面よりいっそう陰気であった。窓には鉄格子《てつこうし》がはまっていて、燈火の影さえさしてはいなかった。上方の窓には監獄に見るように目隠しがついていた。その一方の正面の影は他の正面の上に落ち、更に庭に落ちて、広い黒布をひろげたようなありさまをしていた。
 そのほかには一軒の家も見当たらなかった。庭の奥は靄《もや》と夜とのうちに見えなくなっていた。けれども二、三の壁がぼんやり見分けられて、その交錯してる所を見ると向こうにはなお耕作地があるらしく、またポロンソー街の低い屋根並みも見分けられた。
 その庭はまったく想像にもおよばないほど荒涼たるものだった。人影一つなかったのは夜ふけのこととて当然ではあるが、しかしまっ昼間でさえ人の歩く所ではなさそうなありさまだった。
 ジャン・ヴァルジャンの第一の注意は、靴を拾ってはき、それからコゼットとともに物置きの中にはいりこむことだった。逃走者はいかによく身を隠してもそれで十分とは思わないものである。コゼットの方もテナルディエの上さんのことをまだ考えていて、彼と同じくできるだけ身を潜めようとしていた。
 コゼットは震えながら彼にすがりついていた。聞こえるものとては、袋町や街路をさがし回ってる巡邏《じゅんら》の騒がしい足音、石にぶつかる銃床尾の音、配置の探偵《たんてい》に呼びかけるジャヴェルの声、よく聞き取れないその言葉のののしり声。
 十五分ばかりもたつと、その騒がしい怒号の響きもしだいに遠くなってゆくように思えた。ジャン・ヴァルジャンは息を凝らしていた。
 彼はそっとコゼットの口に手をあてていた。
 けれども彼が隠れていたその場所は、不思議なほど寂然《せきぜん》と静まり返っていて、すぐそばの恐ろしい激しい騒ぎも、何ら不安の影を投じてこなかった。あたかもそれらの壁は、聖書にあるあの聾者《ろうしゃ》の石ででも造られてるかのようであった。
 突然、その深い静謐《せいひつ》のうちに、新しい音響が起こった。天来の聖《きよ》い名状すべからざる響きで、前の音が恐ろしかったのに比べて実に歓《よろこ》ばしい響きであった。暗やみのうちから伝わって来る賛美歌で、夜の暗い恐ろしい静寂のうちにおける祈祷《きとう》と和声との光耀《こうよう》であった。女の声、それも童貞女の濁りない音調と少女の無邪気な音調とがいっしょにもつれ合った声、地上のものとも思われぬ声、赤児の耳になお残っており臨終の人の耳に既に響いているあの声にも似寄ったもの。その歌声は庭にそびえている薄暗い建物からもれて来るのだった。悪魔の騒がしい声が遠ざかって、天使の合唱が影のうちに近づいてくるかのようだった。
 コゼットとジャン・ヴァルジャンとはひざまずいた。
 二人はそれが何であるかを知らず、自分らがどこにいるかを知らなかった。しかし彼らは二人とも、その老人も子供も、その改悛者《かいしゅんしゃ》も罪なき者も、ひざまずかなければならないように感じたのであった。
 それらの声は不思議にも、その建物の寂しさを少しも消さなかった。人なき住居《すまい》のうちにおける超自然的な歌であった。
 それらの声が歌っている間、ジャン・ヴァルジャンはもう何事も考えなかった。彼はもはや暗夜を見ず、青空をながめていた。人のみな心のうちに有しているあの昇天の翼が開くのを、彼ははっきり感ずるような心地がした。
 歌はやんだ。おそらくそれは長く続いたのかも知れなかったが、ジャン・ヴァルジャンにはどれくらいだったかわからなかった。恍惚《こうこつ》たる時間は常に一瞬間としか思えないものである。
 すべては再び沈黙のうちに返った。もう街路にも庭の中にも、何物もなかった。脅かすものも心を安めるものも、すべて消え失せてしまった。壁の頂にはえてる少しの枯れ草を風が吹いて、静かな悲しげな小さな音を立てていた。

     七 謎《なぞ》の続き

 夜の北風が吹き初めていた。それでみるともう夜中の一時か二時の頃に違いなかった。かわいそうにコゼットは何とも口をきかなかった。ジャン・ヴァルジャンは彼女がそばの地面にすわって自分の上に頭をもたしているので、もう眠ってるのかと思った。彼は身体をかがめてその顔をのぞいた。彼女は目を大きく開いていて何か考えてるようなふうだった。彼は痛ましく感じた。
 彼女はまだ震えていた。
「眠くはないかね。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「ひどく寒いの。」と彼女は答えた。
 それからややあって彼女は言った。
「まだ向こうにいるの?」
「だれが?」とジャン・ヴァルジャンはきいた。
「テナルディエのお上さんが。」
 ジャン・ヴァルジャンはもうコゼットを黙らせるためにとった手段のことなんか忘れていた。
「ああ、お上さんならもう行ってしまったよ。」と彼は言った。「もうこわがるものはない。」
 子供は重荷が胸から取り去られたようにため息をついた。
 地面は湿っていた。物置きは四方が開いていて、寒い風は一刻ごとに鋭くなっていた。老人は上衣をぬいで、それをコゼットにまとってやった。
「これで少しは暖いかね。」と彼は言った。
「ええ、お父さん。」
「ではちょっと待っておいで。すぐに戻ってくるから。」
 彼はその廃屋から出て、もっといい隠れ場所をさがしながら、大きな建物に沿って歩き出
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