した。幾つも戸口はあったが、どれもしまっていた。一階の窓にはみな格子《こうし》がついていた。
建物の内側の曲がり角《かど》を通り過ぎると、アーチ形の窓が幾つもある所に出た。光がさしていた。彼は爪先《つまさき》で伸び上がって、一つの窓からのぞいてみた。それらの窓はみなかなり広い一つの広間についていて、広間の中は大きな石が舗《し》いてあり、迫持揃《せりもちぞろい》と柱とで仕切られ、ただ一つの小さな光と大きな影とのほか、何も見分けられなかった。その光は、片すみにともされてる一つの有明《ありあけ》から来るのだった。広間の中はひっそりとして、何も動くものはなかった。けれどもじっと見ていると、床石の上に、喪布におおわれた人間の形らしいものが、ぼんやり見えるようだった。それはうつ向きになって、床石に顔をつけ、腕を十字に組み、死んだようにじっとして動かなかった。床の上に引きずっている蛇《へび》のようなもので、そのすごい形のものには首に繩《なわ》がついてるようにも思われた。
広間のうちは薄ら明りに浮かび上がってくる一種の靄《もや》が立ちこめて、いっそう恐ろしい趣になっていた。
ジャン・ヴァルジャンがその後しばしば言ったことであるが、彼は生涯《しょうがい》に幾度か陰惨な光景に出会ったけれども、その薄暗い場所でま夜中にのぞき見た謎《なぞ》のような人の姿が、何とも言えない不可解な神秘を行なってるありさまほどぞっとする恐ろしいものは、かつて見たことがなかった。それはたぶん死んでるのかも知れないと想像するのは恐ろしいことだったが、あるいは生きてるのかも知れないと考えるのはなおさら恐ろしいことだった。
彼は勇気を鼓して額を窓ガラスに押し当て、それが動きはしないかをうかがった。だいぶ長い間そうしてうかがっていたが、横たわってるその形は少しも動かなかった。と突然名状し難い恐怖を感じて、彼は逃げ出した。後ろもふり返り得ないで物置きの方へ駆け出した。もしふり向いたら、後ろにはきっとその形が腕を振りながら大またに追いかけてくるのが見えるに違いないような気がした。
彼は息を切らして小屋の所へ帰ってきた。足もまっすぐには立てなかった。腰には冷や汗が流れていた。
いま自分はどこにいるのであろう。パリーのまんなかにこんな墓場のようなものがあろうとは、だれが想像し得られよう。この不思議な家は何だろう。夜の神秘に満ちた建物、天使のような声でやみの中に人の心を招く家、しかも近づいてゆくと突然に現わるるその恐るべき光景、輝かしい天国の門が開けるかと思うと、恐ろしい墓場の門が開いてくる。そしてそれはまさしく現実の建物である、街路の方には番地がしるしてある一軒の家である。夢ではないのだ。しかし彼は容易にそう信ずることができなかった。
寒気、心配、不安、その夜の種々な激情、そのために彼は実際熱をも発していた。そしてあらゆる考えが頭のうちには入り乱れていた。
彼はコゼットに近寄った。コゼットは眠っていた。
八 謎《なぞ》はますます深くなる
コゼットは一つの石に頭をもたして、そこに眠ってしまっていた。
彼はそのそばにすわって、彼女をながめ初めた。そして彼女をながめてるうちにしだいに心が落ち着いてきて、頭の自由を回復した。彼は次の真実を、今後の自分の生活の基をはっきりと認めた、すなわち、コゼットがいる間は、コゼットをそばに有している間は、自分の求むるところのものはすべて彼女のためのみであり、自分の恐れるところのものもすべて彼女のためのみであるということを。彼は彼女に着せるために上衣をぬいでいたが、ひどく寒いとも感じてはいなかったのである。
しかるに、そういう瞑想《めいそう》にふけっているうちに、少し前から変な物音が彼の耳に達していた。ちょうど鈴を振ってるような音だった。それが庭の中に聞こえていた。弱くはあるが、はっきりと聞き取れた。夜牧場で家畜の首についてる鈴から起こるかすかな小音楽にも似寄っていた。
その音をきいて、ジャン・ヴァルジャンはふり返った。
よく見ると、庭の中にだれか人がいた。
一人の男らしい人影が、瓜畑《うりばたけ》の幾つもの鐘形覆《しょうけいおお》いの間を、規則正しく立ち上がったりかがんだり立ち止まったりして歩いていた。ちょうど何かを地面に引きずってるかまたはひろげてるようだった。その男は跛者《びっこ》らしかった。
ジャン・ヴァルジャンは身を震わした。不運な者らが絶えずやるような身震いであった。すべてに敵意がありすべてが疑わしいように彼らは思うものである。人の目につきやすいからといっては昼間をきらい、不意に襲われやすいからといっては夜をきらうのである。ジャン・ヴァルジャンは、先刻は庭に人影のないのを見ておののき、今は庭にだれかいるのを見ておののいた。
彼は夢幻的恐怖から現実的恐怖へと陥っていった。考えてみると、ジャヴェルと探偵《たんてい》の者らはおそらくまだ立ち去っていないだろう、彼らは必ずや通りに見張りの者を残していったろう、あの男が自分を庭のうちに見いだしたら、泥坊と叫んで彼らの手に自分を渡してしまうだろう。彼は眠ってるコゼットを静かに腕に抱いて、物置きの一番奥のすみに、廃《すた》れた古い家具のつみ重なっている向こうに、そっと連れていった。コゼットは身動きもしなかった。
そこから彼は、瓜畑の中にいる男の様子をうかがった。不思議なことには、鈴の音はその男の動作につれて起こっていた。男が近づくと鈴の音も近づき、男が遠くなると鈴の音も遠くなり、男が急な動作をするとそれにつれて顫音《せんおん》が聞こえ、男が立ち止まると鈴の音もやんだ。明らかに鈴はその男についてるらしかった。してみると、それはいったい何を意味するのであろう。羊か牛ででもあるように鈴を下げてるその男は、いったい何者であろう。
そんな疑問をくり返しながら、彼はコゼットの手にさわってみた。その手は冷えきっていた。
「ああこれは!」と彼は言った。
彼は低い声で呼んだ。
「コゼット!」
コゼットは目を開かなかった。
彼は激しく揺すってみた。
彼女は目をさまさなかった。
「死んだのかしら!」と彼は言った。そして頭から足先まで震えながら立ち上がった。
最も恐ろしい考えが混乱して彼の頭を通りすぎた。おぞましい想像が一隊の地獄の神のように襲いきたって、頭脳の壁に激しく押し寄せることもあるものである。愛する人々の身の上に関する場合には、用心深い人の心もあらゆる狂気じみたことを考え出すものである。睡眠も寒い夜戸外においては生命にかかわることがあるのを彼は思い出した。
コゼットはまっさおになって、彼の足元の地面にぐったり横たわって、身動きもしなかった。
彼は耳をあててその呼吸をきいてみた。
息はまだあった。しかしそれもきわめてかすかで、すぐにも止まりそうに思えた。
どうして彼女をあたためるか、どうして彼女をさまさせるか? その一事より以外のことはすべて彼の頭から消えてしまった。彼は我を忘れて小屋の外に飛び出した。
十五分とたたないうちにコゼットを寝床に寝かして火のそばに置いてやることは、是非ともしなければならないことだった。
九 鈴をつけた男
ジャン・ヴァルジャンは庭にいる男の方へまっすぐに進んで行った。彼はチョッキの隠しにはいっていた貨幣の包みを手に握っていた。
男は顔を下に向けて、彼がやって来るのを知らなかった。大股《おおまた》に飛んで行ってジャン・ヴァルジャンはすぐ彼の所へ達した。
ジャン・ヴァルジャンはそのそばに行って叫んだ。
「百フラン!」
男はびくりとして目を上げた。
「百フランあげる、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「もし今夜私を泊めてくれるなら!」
月の光はジャン・ヴァルジャンの狼狽《ろうばい》した顔をまともに照らしていた。
「おや、あなたですか、マドレーヌさん!」と男は言った。
そんな夜ふけに、不思議な場所で、その見も知らぬ男から、マドレーヌという名をふいに言われたので、ジャン・ヴァルジャンは思わずあとにさがった。
彼は何でも予期してはいたが、そのことばかりは全く思いがけないことだった。彼にそう言った男は腰の曲がった跛の老人で、ほぼ百姓のような着物をきて、左の膝《ひざ》に皮の膝当てをつけ、そこにかなり大きな鈴をぶら下げていた。その顔は影になっていて見分けられなかった。
そのうちに老人は帽子をぬいで、震えながら叫んだ。
「まあ、マドレーヌさん、どうしてここへきなすった? いったいどこからおはいりなすった? 天から降ってでもきなすったかね。そうそう、あなたが降ってきなさるなら、天からに違いない。そしてまたその様子は! 襟飾《えりかざ》りも、帽子も、上衣も着ていなさらない。知らない人だったら魂消《たまげ》てしまいますよ。まあこの節は聖者たちも何と妙なことをなさることやら。だがまあどうしてここへおはいりなすったかね。」
その言葉は引き続いて出てきた。田舎者《いなかもの》の早口で少しも不安を与うるものではなかった。ただ質朴な正直さと呆然《ぼうぜん》自失との入り交じった調子だった。
「君はだれですか、そしてこれはどういう家ですか。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「まあ何ということだ!」と老人は叫んだ。「私はあなたからここに入れてもらった男で、この家はあなたが私を入れて下さった所ですよ。ええ私がおわかりになりませんかな。」
「わからない。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「どうして君は私を知ってるんです。」
「あなたは私の生命《いのち》を助けて下さった。」と男は言った。
男は向きを変えた。月の光が彼の横顔を照らし出した。そしてジャン・ヴァルジャンはフォーシュルヴァン老人を見て取った。
「ああ、君だったか。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「なるほど思い出した。」
「それで安堵《あんど》しましたよ!」と老人は恨むような調子で言った。
「そしてここで何をしてるんです。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「なあに、瓜《うり》を囲ってやってるんですよ。」
ジャン・ヴァルジャンが近寄ってきた時、フォーシュルヴァン老人は実際手に防寒菰《ぼうかんこも》のはじを持っていて、それを瓜畑《うりばたけ》の上にひろげてるところだった。彼は一時間ばかり前から庭に出ていて、既に多くの菰をひろげてしまっていた。ジャン・ヴァルジャンが物置きの中からながめた彼の変な動作は、そういうことをしてるためだった。
彼は続けて言った。
「私は考えたんですよ。月はいいし、霜はおりるだろう、どれひとつ瓜に外套《がいとう》をきせてやろうかって。」そして彼はジャン・ヴァルジャンを見て高く笑いながらつけ加えた。「あなたにもそうしてあげなければいけませんかな。だがいったいどうしてここにきなすったかね。」
ジャン・ヴァルジャンは、今自分はこの男から知られている、少なくともマドレーヌという名前で知られている、ということを感じて、こんどは用心してしか話を進めなかった。彼は種々なことを尋ねてみた。不思議にも役割が変わってしまったかのようだった。今や尋ねかけるのは闖入者《ちんにゅうしゃ》なる彼の方であった。
「いったい君が膝《ひざ》につけてる鈴は何かね。」
「これですか、」とフォーシュルヴァンは答えた、「これは人がよけるようにつけてるんですよ。」
「なんだって、人がよけるように?」
フォーシュルヴァン老人は妙な瞬《まばたき》をした。
「なにね、この家には女ばかりきりいないんです。大勢の若い娘さんたちですよ。私と顔を合わすのが険呑《けんのん》だと見えましてね、鈴で知らしてやるんですよ。私が行くと、皆逃げていきます。」
「これはどういう家かね。」
「ええ! 御存じでしょうがね。」
「いや、知らないんだ。」
「私をここの庭番に世話して下すってながら!」
「まあ何にも知らないものとして教えてくれ。」
「それじゃあね、プティー・ピクプュスの修道院ですよ。」
ジャン・ヴァルジャ
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