たし、」とファヴォリットは言った、「黄金《きん》のものがいいわ。」
だが彼女らは間もなく、川縁《かわっぷち》のどよめきに気を取られてしまった。大きな木立ちの枝の間からはっきり見て取られて、大変おもしろかったのである。ちょうど郵便馬車や駅馬車が出かける時だった。南と西とへ行くたいていの馬車は、当時シャン・ゼリゼーを通っていったものである。その多くは河岸に沿って、パッシーの市門から出て行くのを常としていた。黄色や黒に塗られ、重々しく荷を積まれ、多くの馬にひかれ、行李《こうり》や桐油《とうゆ》紙包みや鞄《かばん》などのため変な形になり、客をいっぱいのみこんでる馬車が、絶えまなく通って、道路をふみ鳴らし、舗石に火を発し、鍛冶場《かじば》のような火花を散らし、ほこりの煙をまき上げ、恐ろしい有様をして、群集の間を走っていった。その騒擾《そうじょう》が若い娘たちを喜ばせた。ファヴォリットは叫んだ。
「何という騒ぎでしょう! 鎖の山が飛んでゆくようだわ。」
ところが一度、楡《にれ》の茂みのうちにわずかに見えていた一つの馬車が、ちょっと止まって、それからまた再びかけ出した。ファンティーヌはそれにびっくりした。
「変だわ!」と彼女は言った。「駅馬車は途中で止まるものでないと思っていたのに。」
ファヴォリットは肩をそびやかした。
「ファンティーヌはほんとに人をびっくりさせるよ。おかしな人だこと。ごくつまらぬことにも目を見張るんだもの。かりにね、あたしが旅をするとするでしょう。駅馬車にこう言っておくとする、先に行ってるから通りがかりに河岸の所で乗せておくれって。するとその駅馬車が通りかかって、あたしを見て、止まって、乗せてくれるわ。毎日あることよ。あんたは世間を知らないのね。」
そんなことをしているうちにしばらく時がたった。とにわかにファヴォリットは、目をさました[#「目をさました」は底本では「目がさました」]とでもいうような身振りをした。
「ところで、」と彼女は言った、「びっくりすることはまだかしら。」
「そうそう、」とダーリアは言った、「例のびっくりすることだったわね。」
「あの人たちは大変長いわね!」とファンティーヌは言った。
ファンティーヌがそのため息をもらした時に、食事の時についていたボーイがはいってきた。何か手紙らしいものを手に持っていた。
「それなあに?」とファヴォリットが尋ねた。
ボーイは答えた。
「皆様へと言って旦那《だんな》方が置いてゆかれた書き付けです。」
「なぜすぐに持って来なかったの。」
「旦那方が、」とボーイは言った、「一時間後にしか渡してはいけないとおっしゃったものですから。」
ファヴォリットはボーイの手からその書き付けを引ったくった。それは果して一通の手紙であった。
「おや!」と彼女は言った、「あて名がないわ、だがこう上に書いてある。」
びっくりすることとはこれである。
彼女は急いで封を切り、それを披《ひら》き、そして読み下した。(彼女は字が読めるのだった。)
[#ここから2字下げ]
愛する方々よ!
われわれに両親のあることは御承知であろう。両親、貴女たちはそれがいかなるものであるかよく御存じあるまい。幼稚な正直な民法では、それを父および母と称している。ところで、それらの両親は悲嘆にくれ、それらの老人はわれわれに哀願し、それらの善良なる男女はわれわれを放蕩息子《ほうとうむすこ》と呼び、われわれの帰国を希《ねが》い、われわれのために犢《こうし》を殺してごちそうをしようと言っている。われわれは徳義心深きゆえ、彼らのことばに従うことにした。貴女たちがこれを読まるる頃には、五頭の勢いよき馬はわれわれを父母のもとへ運んでいるであろう。ボシュエが言ったようにわれわれは営を撤する。われわれは出発する、いやもう出発したのである。われわれはラフィットの腕に抱かれカイヤールの翼に乗ってのがれるのである。ツウルーズの駅馬車はわれわれを深淵から引き上げる。そして深淵というは、貴女たち、おおわが美しき少女らである。われわれは社会のうちに、義務と秩序とのうちに、一時間三里を行く馬の疾走にて戻るのである。県知事、一家の父、野の番人、国の顧問、その他すべて世間の人のごとくに、われわれの存在もまた祖国に必要である。われわれを尊重せられよ。われわれはおのれを犠牲にするのである。急いでわれわれのことを泣き、早くわれわれの代わりの男を求められよ。もしこの手紙が貴女たちの胸をはり裂けさせるならば、またこの手紙をも裂かれよ。さらば。
およそ二カ年の間、われわれは貴女たちを幸福ならしめた。それについてわれわれに恨みをいだきたもうなかれ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から8字上げ]署名 ブラシュヴェル
[#地から8字上げ]ファムイュ
[#地から8字上げ]リストリエ
[#地から3字上げ]フェリックス・トロミエス
[#ここから3字下げ]
追白、食事の払いは済んでいる。
[#ここで字下げ終わり]
四人の若い娘は互いに顔を見合った。
ファヴォリットが第一にその沈黙を破った。
「なるほど、」と彼女は叫んだ、「とにかくおもしろい狂言だわ。」
「おかしなことだわ。」とゼフィーヌは言った。
「こんなことを考えついたのはブラシュヴェルに違いない。」とファヴォリットは言った。「そう思うとあの男が好きになったわ。いなくなったら恋しくなる。まあ万事そうしたものね。」
「いいえ、」とダーリアは言った、「これはトロミエスの考えたことだわ。受け合いだわ。」
「そうだったら、」とファヴォリットは言った、「ブラシュヴェルだめ、そしてトロミエス万歳だわ。」
「トロミエス万歳!」とダーリアとゼフィーヌとは叫んだ。
そして彼女たちは笑いこけた。
ファンティーヌも他の者と同じく笑った。
一時間後、自分の室に帰った時に、ファンティーヌは泣いた。前に言ったとおり、それは彼女の最初の恋であった。彼女は夫に対するようにトロミエスに身を任していた。そしてこのあわれな娘にはもう一人の児ができていたのであった。
[#改ページ]
第四編 委託は時に放棄となる
一 母と母との出会い
パリーの近くのモンフェルメイュという所に、今ではもう無くなったが、十九世紀の初めに一軒の飲食店らしいものがあった。テナルディエという夫婦者が出していたもので、ブーランジェーの小路にあった。戸口の上の方には、壁に平らに釘《くぎ》付けにされてる一枚の板が見られた。その板には、一人の男が他の一人の男を背負っているように見える絵が描《か》いてあった。背中の男は、大きな銀の星がついてる将官の太い金モールの肩章をつけていた。血を示す赤い斑点《はんてん》が幾つもつけられていた。画面の他の部分は、一面に煙であってたぶん戦争を示したものであろう。下の方に次の銘が読まれた、「ワーテルローの軍曹へ。」
旅籠屋《はたごや》の入口に箱車や手車があるのは、いかにも普通のことである。一八一八年の春のある夕方、ワーテルローの軍曹の飲食店の前の通りをふさいでいた馬車は、なお詳しく言えばそのこわれた馬車は、いかにも大きくて、もし画家でも通りかかったらきっとその注意をひくであろうと思われるほどだった。
それは森林地方で厚板や丸太を運ぶのに使われる荷馬車の前車《まえぐるま》であった。その前車は、大きな鉄の心棒と、それに嵌《は》め込んである重々しい梶棒《かじぼう》と、またその心棒をささえるばかに大きな二つの車輪とでできていた。その全体はいかにもでっぷりして、重々しく、またぶかっこうだった。ちょうど大きな大砲をのせる砲車のようだった。車輪や箍《たが》や轂《こしき》や心棒や梶棒などは厚く道路の泥をかぶって、大会堂を塗るにもふさわしい変な黄色がかった胡粉《ごふん》を被《き》せたがようだった。木の所は泥にかくれ、鉄の所は錆《さび》にかくれていた。心棒の下には、凶猛な巨人ゴライアスを縛るにいいと思われるような太い鎖が、綱を渡したようにつるされていた。その鎖は、それで結《ゆわ》えて運ぶ大きな木材よりもむしろ、それでつながれたかも知れない太古の巨獣マストドンやマンモスなどを思い浮かばせた。それは牢獄のような感じだった。それも巨人のそして超人間的な牢獄である。そして何かある怪物から解き放して置かれているかのようだった。ホメロスはそれをもってポリフェモスを縛し、シェークスピアはそれをもってカリバンを縛したことであろう。
なぜそんな荷馬車の前車がそこの小路に置かれているかというと、第一には往来をふさぐためで、第二には錆《さ》びさせてしまうためだった。昔の社会には種々な制度があって、そんなふうに風雨にさらして通行の邪魔をするものがいくらもあった、そしてそれも他には何らの理由もないのである。
さてその鎖のまん中は心棒の下に地面近くまでたれ下がっていた。そしてその撓《たる》んだ所にちょうどぶらんこの綱にでも乗ったようにして、その夕方、二人の小さな女の児が腰を掛けて嬉しそうに寄りそっていた。一人は二歳半ぐらいで、も一人のは一歳半ぐらいであって、小さい方の児は大きい方の児の腕に抱かれていた。うまくハンカチを結びつけて二人が鎖から落ちないようにしてあった。母親がその恐ろしい鎖を見て、「まあ、私の子供にちょうどいい遊び道具だ、」と言ってそうさしたのだった。
二人の子供は、それでもきれいなそしていくらか念入りな服装《みなり》をさせられて、そして生き生きとしていた。ちょうど錆びくちた鉄の中に咲いた二つの薔薇《ばら》のようだった。その目は揚々《ようよう》と輝き、その瑞々《みずみず》しい頬には笑いが浮かんでいた。一人は栗《くり》色の髪で、一人は褐色《かっしょく》の髪をしていた。その無邪気な顔は驚喜すべきものだった。通り過ぐる人たちににおって来る傍《かたわら》の叢《くさむら》の花のかおりも、その子供たちから出てくるのかと思われた。一歳半の方の子供は、かわいらしい腹部を露《あら》わに見せていたが、その不作法さもかえって幼児の潔《きよ》らかさであった。その幸福と輝きとのうちに浸ってる二人の優しい頭の上やまわりには、荒々しい曲線と角度とがもつれ合い錆で黒くなってほとんど恐ろしいばかりの巨大な前車が、洞穴《ほらあな》の入り口のように横たわっていた。そこから数歩離れて、宿屋の敷居《しきい》の所にうずくまってあまり人好きのせぬ顔立ちではあるがその時はちょいとよく見えていた母親が、鎖につけた長いひもで二人の子供を揺すりながら、母性に特有な動物的で同時に天使的な表情を浮かべて、何か危険なことが起こりはすまいかと気使って見守っていた。鎖の揺れるたびごとに、その気味悪い鉄輪は、怒りの叫び声にも似た鋭い音を立てた。が子供たちは大喜びで、夕日までがその喜びに交じって輝いていた。巨人の鎖を天使のぶらんこにしたその偶然の思いつきほど人の心をひくものはなかった。
二人の子供を揺すりながら、母親は当時名高い恋歌を調子はずれの声で低く歌っていた。
[#ここから4字下げ]
余儀なし、と勇士は言いぬ……
[#ここで字下げ終わり]
歌を歌いまた子供たちを見守っていたために、彼女には往来で起こってることが聞こえも見えもしなかった。
けれども、彼女がその恋歌の初めの一連を初めた時には、だれかが彼女のそばにきていた。そして突然彼女は自分の耳のすぐそばに人の声をきいた。
「まあかわいいお児さんたちでございますね。」
[#ここから4字下げ]
美しく優しきイモジーヌへ。
[#ここで字下げ終わり]
と母親はなお歌い続けながらその声に答えて、それからふり向いてみた。
一人の女がすぐ数歩前の所にいた。その女もまた一人の子供を腕に抱いていた。
女はなおその外に、重そうに見えるかなり大きな手鞄《てかばん》を持っていた。
その女の子供は、おそらくこの世で見らるる最も聖《きよ》い姿をしたものの一つであった。二歳《ふたつ》か三歳《みっつ》の女の児だった。服装《みなり》のきれいなことも
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