かおりがなくてはいけない、婦人には機才がなくてはいけない([#ここから割り注]訳者注 ローザとは薔薇の意で、薔薇にはダリアと違って芳香がある[#ここで割り注終わり])。僕はファンティーヌについて一言も費やさなかったが、ファンティーヌこそは、夢想的な瞑想的な沈思的な敏感な女である。ニンフの姿と尼僧の貞節とをそなえた幻影であって、誤ってうわ気女工の生活のうちに迷い込んだが、しかし幻のうちに逃げ込み、歌を歌い、祈りをし、何を見何をしてるかを自ら知らずして蒼空をうちながめ、小鳥の多い空想の庭の中を空を仰ぎながらさ迷う女である。おおファンティーヌよ、このことを知れ、我トロミエスは一つの幻にすぎないことを。しかし彼女はこの言を耳にも入れない、空想の金髪の娘よ! 要するに彼女のうちにあるものは、新鮮、爽快《そうかい》、青春、朝の穏やかな光である。おおファンティーヌよ、汝はマルグリット(菊)もしくはペルル(真珠)の名にふさわしい娘で、最も光輝美しい女である。さて婦人諸君、ここに第二の忠告がある。曰《いわ》く、決して結婚するなかれ。結婚は一つの接木《つぎき》である。うまくもゆけば、まずくもゆく。そういう危険は避けるがよい。しかし、つまらぬことを僕は言い出したものだ。言葉をむだにするばかりだ。結婚については、娘たちは救われない。われわれ賢者がいかに言葉を費やしても、チョッキを仕立て半靴を縫う娘たちまでが、やはりダイヤモンドを飾った夫を夢みるのだ。それもよし。ただ美人諸君、よく心に入れたまえ、諸君はあまりに多く砂糖を食いすぎる。婦人諸君、君たちはただ一つの欠点を持っている、すなわち、砂糖を蚕食することだ。おお齧歯獣《げっしじゅう》の婦人よ、君たちの美しい小さな白い歯は砂糖を崇拝する。がよく聞かれよ、砂糖は一種の塩である。塩はすべて物を乾燥せしむる。中にも砂糖はあらゆる塩のうちで最も乾燥力が強い。それは血管を通して血液の水分を吸い取る。それ故血液の凝結と次にその固結をきたす。そのために肺に結核を生じ、次いで死をきたす。糖尿病と肺病とが隣するはこのゆえである。それで、砂糖をかじらなければ君たちは万々歳だ! 次に男子諸君に言う。諸君、よろしく婦人を獲得すべしだ。何ら悔いの念なく互いに恋人を奪い合うべしだ。恋には友人も存しない。美人ある所には至る所に対抗がはじまる。仮借なき決戦! 美人はカジュス・ベリ(戦囚)であり、美人は一つの現行犯である。歴史上のすべての侵入は女の腰巻きによって決定せられた。婦人は男子の権利物である。ロムルスはサビネの女らを奪い、ウィリアムはサクソンの女らを奪い、シーザーはローマの女らを奪った。愛せられざる男は禿鷹のごとくに他人の恋人らの上を飛ぶ。僕はひとり者の不幸な男らに、ボナパルトがイタリー軍になした崇高なる宣言を投げ与える、曰く、兵士らよ、汝らは何物をも有せず、敵はすべてそれらを持てり。」
トロミエスはちょっとやめた。
「少し息をつけ、トロミエス。」とブラシュヴェルは言った。
同時にブラシュヴェルはリストリエとファムイュとにつけられて、哀歌の節《ふし》で歌を歌い出した。それはでたらめの言葉を並べた工場の小唄《こうた》の一つで、豊富にむちゃに韻をふみ、木の身振りや風の音と同じく何らの意味もなく、煙草の煙とともに生まれ、その煙とともに散り失せ飛び去ってゆく歌の一つであった。トロミエスの長談義に答えて皆が歌ったその歌は次のようなものだった。
[#ここから4字下げ]
ばかな長老さんたちは、
代理の者に金《かね》くれて、
クレルモン・トンネールさんを、
サン・ジャンの法皇に骨折った。
クレルモンは牧師でないゆえ、
法皇になることできんかった。
代理の者は腹立てて、
その金持って戻ってきた。
[#ここで字下げ終わり]
それはトロミエスの即席演説を静めはしなかった。彼は杯をのみ干して、また酒をつぎ、再びはじめた。
「知恵をうち仆《たお》せ! 僕が言ったことはすべて忘れるがいい。貞淑ぶるなかれ、小心たるなかれ、廉直なるなかれ。僕は愉悦に向かって祝杯をささぐる。よろしく快活なれ! わが法律の講座を補うにばか騒ぎと御ちそうとをもってすべし。不消化と法律全書。ジュスティニアンは男性にしてリパイユは女性たるべし! 深淵《しんえん》のうちにおける快楽よ! 生きよ、おお天地万物よ! 世界は大なるダイヤモンドなるかな! 僕は愉快だ。小鳥は驚くべきものだ。どこもこれお祭りだ! 鶯《うぐいす》は無料《ただ》で聞けるエルヴィウーだ。夏よ、われは汝を祝する。おおリュクサンブール、おおマダム街の鄙唄《ひなうた》! おおオブセルヴァトアールの通路の鄙唄! おお夢みる兵士ら! 子供を守《もり》しながらその姿を描いて楽しむかわいい婢《おんな》ら! オデオンの拱廊《きょうろう》がなければ、僕はアメリカの草原を喜ぶ。わが魂は人跡いたらぬ森林と広漠《こうばく》たる草原とに飛ぶ。万物みな美である。蠅《はえ》は光のうちを飛び、太陽に蜂雀《ほうじゃく》はさえずる。わが輩を抱け、ファンティーヌ!」
そして彼はまちがえてファヴォリットを抱いた。
八 馬の死
「ボンバルダよりエドンの方がうまいものを食べさせるわ。」とゼフィーヌが叫んだ。
「僕はエドンよりボンバルダの方が好きだ。」とブラシュヴェルは言った。「こっちの方がよほど上等だ。よほどアジアふうだ。下の部屋を見てみたまえ。壁にはグラス(鏡)がかかっている。」
「グラス(氷)ならお皿の中のの方がいいわ。」とファヴォリットは言った。
ブラシュヴェルは言い張った。
「ナイフを見たまえ。ボンバルダでは柄が銀だが、エドンでは骨だ。銀の方が骨よりも高いんだ。」
「そう、銀|髯《ひげ》の腮《えら》を持ってる人を除いてはね。」とトロミエスが言った。
彼はその時、ボンバルダの窓から見える廃兵院の丸屋根を見ていた。
それからちょっと言葉がと絶えた。
「おいトロミエス、」とファムイュは叫んだ、「先程、リストリエと僕と議論をしたんだが。」
「議論は結構だ。」とトロミエスは答えた、「喧嘩《けんか》ならなおいい。」
「哲学を論じ合ったんだ。」
「なるほど。」
「デカルトとスピノザと君はどっちが好きなんだ。」
「デゾージエ([#ここから割り注]訳者注 当時歌謡の作者[#ここで割り注終わり])が好きだ。」とトロミエスは言った。
そうくいとめておいて、彼は一杯飲んで、そして言った。
「わが輩は生きるに賛成だ。地上には何物も終滅していない、何となれば人はなおばかを言い得るからだ。僕はそれを不死なる神々に感謝する。人は嘘をつく、しかし人は笑う。人は確言する、しかし人は疑う。三段論法から意外なことが飛び出す。それがおもしろいのだ。逆説のびっくり箱を愉快に開《あ》けたり閉《し》めたりすることのできる人間が、なおこの下界にはいる。だが婦人諸君、君たちが安心しきったように飲んでるこのぶどう酒はマデール産だ。よろしいか。海抜三百十七|尋《ひろ》の所にあるクーラル・ダス・フレイラスの生《き》ぶどう酒だ。飲むうちにも注意するがいい! 三百十七尋だぞ! そしてこのりっぱな料理屋のボンバルダ氏は、その三百十七尋を四フラン五十スーで諸君にくれるのだ。」
ファムイュはまたそれをさえぎった。
「トロミエス、君の意見は法則となるんだ。君の好きな作者はだれだ!」
「ベル……。」
「ベル……カンか。」
「いや。……シューだ。」([#ここから割り注]訳者注 ベルシューは「美食法」という詩の作者[#ここで割り注終わり])
そしてトロミエスはしゃべり続けた。
「ボンバルダに栄誉あれ! エジプト舞妓《まいこ》の一人を加うれば、エレファンタのムノフィス料理店にも肩を並べ、ギリシャ売笑婦の一人を加うれば、ケロネのティジェリオン料理店とも肩を並べるだろう。何となれば、婦人諸君、ギリシャにもエジプトにも、ボンバルダというのがあったのである。アプレウスの書物に出ている。ただ悲しいかな、世事は常に同一にして何ら新しきことなし。創造主の創造のうちにはもはや何ら未刊のものなし! ソロモンは言う、天が下に新しきものなし[#「天が下に新しきものなし」に傍点]! ヴィルギリウスは言う、恋は世の人すべてのものなり[#「恋は世の人すべてのものなり」に傍点]! 今日、学生が女学生と共にサン・クルーの川舟に乗るのは、昔アスパジアがペリクレスと共にサモスの流れに浮かんだのと同じである。なお最後に一言を許せ。婦人諸君、君たちはアスパジアがいかなる女であったかを知っているか。彼女は女なる者が未だ魂を持たなかった時代にいたのであるが、彼女のみは一個の魂であった。薔薇《ばら》色と緋《ひ》色との色合いをした魂で、火よりもいっそう熱く、曙《あけぼの》よりもいっそう新鮮であった。アスパジアは女の両極を同時に有する女性であった。娼婦《しょうふ》にして女神であった。ソクラテスに加うるにマノン・レスコーであった。アスパジアは実に、プロメシュースに女が必要である場合には、その用をなすために作られたようなものであった。」
トロミエスは一度口を開けば容易に止まらなかったのであるが、その時ちょうど河岸で一頭の馬が倒れた。その事件のために、荷車と弁士とはにわかに止まった。それはボース産の牝馬で、年老いてやせて屠殺所《とさつじょ》に行くに相当したものだったが、きわめて重い荷車をひいていた。ボンバルダの家の前まで来ると、力つきて疲憊《ひはい》した馬は、もうそれ以上進もうとしなかった。そのためまわりに大勢の人が集まった。ののしり怒った馬車屋が、その時にふさわしい力をこめて断然たる「畜生[#「畜生」に傍点]!」という言葉を発しながら、鞭《むち》をもって強く一打ち食わせるか食わせないうちに、やせ馬は倒れてしまって、また再び起きなかったのである。通行人らの騒ぎに、トロミエスの愉快な聴衆もふり向いてながめた。そしてその間にトロミエスは、次の愁《うる》わしい一節《ひとふし》を歌っておしゃべりの幕を閉じた。
[#ここから4字下げ]
辻《つじ》馬車と四輪の馬車と同じ運命《さだめ》の
浮き世にありてまた駑馬《どば》なりければ、
ああ畜生の一種なる駑馬のなみに
この世を彼女は生きぬ。
[#ここで字下げ終わり]
「かわいそうな馬。」とファンティーヌはため息をもらした。
ダーリアは叫んだ。
「そらファンティーヌが馬のことを悲しみ出したわ! どうしてそんなばかな気になれるんだろう!」
その時ファヴォリットは、両腕を組み頭を後ろに投げ、じっとトロミエスを見つめて言った。
「さあ! びっくりするようなことは?」
「そうだ。ちょうど時がきた。」とトロミエスは答えた。
「諸君、この婦人たちをびっくりさす時がやってきたんだ。婦人諸君、しばらくわれわれを待っていてくれたまえ。」
「まずキッスで初まるんだ。」とブラシュヴェルが言った。
「額にだよ。」とトロミエスはつけ加えた。
皆めいめい荘重に自分の女の額にキッスを与えた。それから口に指をあてながら、四人とも相続いて扉《とびら》の方へ行った。
ファヴォリットは彼らが出て行くのを見て手を拍《たた》いた。
「そろそろおもしろくなってきたわ。」と彼女は言った。
「あまり長くかかってはいやよ。」とファンティーヌは口の中で言った。「みんな待っているから。」
九 歓楽のおもしろき終局
若い娘たちは、後に残った時、二人ずついっしょになって窓の手すりにもたれ、首をかがめ窓から窓へ言葉をかわして、なおしゃべっていた。
彼女らは四人の青年が互いに腕を組んでボンバルダ料理店から出てゆくのを見た。彼らはふり返って、笑いながら女たちに合い図をし、毎週一回シャン・ゼリゼーにいっぱいになるそのほこりだらけの日曜の雑沓《ざっとう》のうちに姿を消した。
「長くかかってはいやよ!」とファンティーヌは叫んだ。
「何を持ってきてくれるんでしょう。」とゼフィーヌは言った。
「きっときれいなものよ。」とダーリアは言った。
「あ
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