ットはまた言った。
「ええ、あたし警察にどなり込んでやる。それこそほんとに困まっちまうわ。憎らしい!」
 ブラシュヴェルはうっとりとして、椅子《いす》にぐっと身を反《そ》らせ、得意げに両の目を閉じた。
 ダーリアは物を食べながら、その騒ぎの中で声を潜めてファヴォリットに言った。
「それじゃあんたはほんとにあの人を大事に思ってるの、ブラシュヴェルを?」
「あたし、あの人大きらい。」とファヴォリットはフォークを取り上げながら同じ低い声で答えた。「それは吝嗇《けち》でね。それよりかあたし、家《うち》の向こうにいるかわいい男が好きなのよ。若い男だが、それはりっぱよ。あんた知ってて? 見たところ何だか役者のようだわ。あたし役者が大好き。その男が帰って来ると、そのお母さんが言うのよ、ああああ、煩《うるさ》いことだ、また喚《わめ》き立てるんだろう、頭がわれそうだって。鼠《ねずみ》のはうようなきたない家なのよ、真っ暗な小さな家よ、それは高い上階《うえ》でね。その家の中で、歌ったり読誦《どくしょう》したりするんだが、何だかわかりゃしない、ただ下からその声が聞こえるだけよ。代言人の所へ通って裁判のことを書くんで、今では日に二十スーとかもらうんだって。サン・ジャック・デュ・オー・パのもとの歌い手の息子《むすこ》なのよ。ほんとにそれはきれいよ。あたしに夢中なの。ある日なんかパンケーキの粉をねってるあたしを見て言うのよ、嬢さん[#「嬢さん」に傍点]、あなたの手袋でお菓子をこしらえたら私が食べてあげますよって[#「あなたの手袋でお菓子をこしらえたら私が食べてあげますよって」に傍点]。そんなふうには芸術家でなくちゃ言えやしないわ。ああそれは好《い》い男よ。どうやらあたしも夢中になりそうだわ。でもどうだっていい、あたしブラシュヴェルに、あんたに惚《ほ》れてるって言っておくの。あたし嘘《うそ》をつくのはうまいでしょう、ねえ、上手でしょう!」
 ファヴォリットはちょっと言葉を切って、そしてまた続けた。
「ダーリア、ねえあたしつまんないわ。夏中雨ばかりだし、いやあな風が吹くし、風は何の足《た》しにもなりはしないし、ブラシュヴェルは大変|吝嗇《けち》だしさ。市場には豌豆《えんどう》もあまりないので、何を食べていいかわかりゃしない。イギリス人が言うように憂鬱《ゆううつ》を感じるわ。バタが大変たかいしね。それからまあ御覧なさいよ、何という所でしょう。寝台のある所で食事をしてるんじゃないの。ほんとに世の中が嫌《いや》になっちまうわ。」

     七 トロミエスの知恵

 さて、ある者は歌っており、ある者はやかましく饒舌《しゃべ》っていて、そして時々皆いっしょになって、ただもう非常な騒ぎであった。トロミエスは皆をさえぎった。
「そうやたらに饒舌ったり、あまり早口をきいたりするなよ。」と彼は叫んだ。「ほんとに楽しもうと思うなら少し考えなくちゃいけない。あまり即興なことばかりやってると、変に頭を空《から》にするものだ。流れるビールは泡《あわ》を立てない。諸君、急ぐなかれだ。御ちそうには荘重さを加えなければいけない。よく考えて食い、ゆるゆると味わおうじゃないか。あわてないがいい。春を見たまえ。春も急げば失敗する、すなわち凍る。あまり熱心なのは、桃や杏《あんず》を害する。あまり熱心なのは、りっぱな饗宴《きょうえん》の美と楽しみとを殺す。熱中したもうな、諸君。食通グリモー・ド・ラ・レーニエールもタレーランの意見に賛成しているではないか。」
 反対のささやきが仲間のうちに聞こえた。
「トロミエス、われわれの邪魔をするな。」とブラシュヴェルは言った。
「圧制者はなぐり倒せ!」とファムイュは言った。
「ボンバルダに暴食に暴飲だ!」とリストリエは叫んだ。
「まだ日曜のうちだ。」とファムイュはまた言った。
「われわれは簡潔だ。」とリストリエがつけ加えた。
「トロミエス、」とブラシュヴェルは言った、「モン・カルム(僕の落ち着いてる様)を見ろ。」
「なるほど君は侯爵だ。」とトロミエスは答えた。
 その駄洒落《だじゃれ》は、水たまりに石を投げ込んだようなものだった。モンカルム侯爵といえば当時名高い王党の一人だったのである。蛙《かえる》どもは皆声をしずめた。
「諸君、」とトロミエスは再び帝国を掌握した者のような声で叫んだ、「落ち着くべしだ。天から落ちたこの洒落にあまり感心しすぎてはいけない。天から落ちたもの必ずしも感心し尊敬すべきもののみではない。洒落は飛び去る精神の糞である。冗談はどこへも落つる。そして精神はむだ口を産み落とした後、蒼空にかけ上る。白い糞は岩の上にへたばるとも、なお禿鷹《はげたか》は空に翔《か》けることをやめない。予の目前にて洒落を侮辱するなかれ! 僕はその価値相当に洒落を尊重する。ただそれだけだ。人類のうちにおいて、そしておそらく人類以外においても、最も厳《いか》めしき者、最も崇高なる者、最も美しき者、みな多少言葉の遊戯をしている。イエス・キリストは聖ペテロについて、モーゼはイザヤについて、アイスキロスはポリニセスについて、クレオパトラはオクタヴィアについて、洒落を言った。このクレオパトラの洒落はアクチオムの戦いの前に言われたことで、もし彼女がいなかったらだれも、ギリシャ語で鍋匙《なべさじ》という意味のトリネの町のことを思い出す者はなかったろう。がそれはそれとしておいて、僕はまた僕の勧告に立ち戻ろう。諸君、繰り返して言うが、熱中したもうな、混乱したもうな、度を過ごしたもうな。たとい才気や快活や楽しみや洒落においてもそれはいけない。聞きたまえ、僕はアンフィアラウスの慎重とシーザーの禿頭《はげあたま》とを持っているんだ。限度というものがなければならない。洒落においてもそうだ。すべてのことに程度あり[#「すべてのことに程度あり」に傍点]だ。限度がなければならない。食事においてもそうだ。婦人諸君、君たちはリンゴ菓子が好きだ、しかしやたらに食べてはいけない。リンゴ菓子にも才能と技術とを要する。大食はそれをなす者を害する。大食大食漢を罰す[#「大食大食漢を罰す」に傍点]だ。消化不良は神の命を受けて胃袋に訓戒をたれる。そしてよろしいか、われわれの各感情は、恋でさえ、一つの胃袋を持っている。それにあまりいっぱいつめ込んではいけない。すべてのことに適当な時期においてフィニス(終局)の文字を刻まなければいけない。おのれを制しなければいけない。もし危急の場合には、欲望の上に錠をおろし、感興を拘束し、自らおのれを監視しなければいけない。賢者とは、一定の時機におのれを制する道を知れる者をいうのである。まあ僕の言うことを信じたまえ。僕はいくらか法律を、その試験を受けたんだから、やったわけである。僕は既定問題と未定問題との差異を知っている。ローマにおいてムナチウス・デメンスが大虐罪の審問掛かりであった頃いかなる拷問を与えたかについて、僕はラテン語の論文を書いたことがある。あるいは僕は博士になるかも知れない。だから必然に僕が愚か物だということは言えないだろう。で僕は諸君に、欲望の節制を勧める。僕がフェリックス・トロミエスという名であることが真実であるように、僕はまったく本当のことを言うんだ。時機至った時に勇ましき決心の臍《ほぞ》を固め、シルラもしくはオリゲネスのごとく後ろを顧みざる者は、幸福なるかな!」
 ファヴォリットは深い注意を払ってそれを聞いていた。
「フェリックス、」と彼女は言った、「何といい言葉でしょう。あたしそういう名前が好きよ。ラテン語だわね。繁昌《はんじょう》という意味でしょう。」
 トロミエスは言い続けた。
「市民よ紳士よ騎士よわが友よ! 諸君は、何らの刺激をも感ずることを欲せず、婚姻の床にもはいらず、恋をないがしろにせんと欲するか。それよりたやすいことはない。ここにその処方がある、曰《いわ》く、レモン水、過度の運動、労役、疲労、石|曳《ひ》き、不眠、徹夜、硝酸水および睡蓮《すいれん》の煎《せん》じ薬の飲取、罌粟《けし》および馬鞭草《くまつづら》の乳剤の摂取、それに加うるに厳重なる断食をもって腹を空《から》にし、その上になお冷水浴、草の帯、鉛板着用、鉛酸液の洗滌《せんじょう》、酸水剤の温蒸。」
「僕はそれよりも女を選ぶ。」とリストリエが言った。
「女!」とトロミエスは言った。「女を信ずるな。女の変わりやすき心に身を投げ出すものは不幸なるかなだ。女は不実にして邪曲である。女は商売|敵《がたき》の感情で蛇《へび》をきらうのだ。蛇は女と向かい合いの店だ。」
「トロミエス、」とブラシュヴェルは叫んだ、「君は酔っている!」
「なあに!」とトロミエスは言った。
「それではもっと愉快にしろ。」とブラシュヴェルは言った。
「賛成。」とトロミエスは答えた。
 そして杯に酒を満たしながら、彼は立ち上がった。
「酒に光栄あれ! バッカスよわれ今汝を[#「バッカスよわれ今汝を」に傍点]頌《たた》えん[#「えん」に傍点]! ごめん、婦人諸君、これはスペイン式だ。ところで、その証拠はここにある、曰く、この人民にしてこの樽《たる》あり。カスティーユの樽《アローブ》は十六リットルであり、アリカントの樽《カンクロ》は十二リットル、カナリーの樽《アルムユード》は二十五リットル、バレアールの樽《キュアルタン》は二十六リットル、ピーター大帝の樽《ボット》は三十リットルである。偉大なりし大帝万歳、しかして更にいっそう偉大なりし彼の樽《ボット》万歳だ。婦人諸君、これは友人としての忠告だ。よろしくば互いに隣人を欺け。恋の特性は流転にある。愛情は膝《ひざ》に胼胝《たこ》を出かしてるイギリスの女中のように、すわり込んでぼんやりするために作られてはいない。そのためにではないんだ。愛情は愉快にさ迷う。楽しき愛情よ! 迷いは人間的であると人は言う。が僕は言いたい、迷いは恋愛的であると。婦人諸君、僕は諸君を皆崇拝する。おおゼフィーヌ、おおジョゼフィーヌ、愛嬌のある顔よ、歪《ゆが》んでさえいなければ素敵である。うっかり腰をかけられてつぶされたようなかわいい顔つきをしている。ファヴォリットに至っては、ニンフにしてミューズの神だ。ある日ブラシュヴェルがゲラン・ボアソー街の溝《どぶ》の所を通っていると、白い靴足袋《くつたび》を引き上げ脛《はぎ》を露《あら》わにした美しい娘を見た。その初会が彼の気に入って、そして彼は恋するに至った。その彼の恋人がファヴォリットなのだ、おおファヴォリットよ! 汝の脣《くちびる》はイオニア式だ。エウフォリオンというギリシャの画家が居たが、脣の画家と綽名《あだな》されていた。そのギリシャ人一人のみが汝の脣を画くに足る。聞きたまえ、汝以前にはかつてその名に値する人間はいなかったのだ。汝はヴィーナスのように林檎《りんご》をもらい、イヴのように林檎を食うために作られている。美は汝より始まる。僕は今イヴのことを言ったが、イヴを作ったのはそれは汝だ。汝は美人発明の特許権を得てもいいのだ。おおファヴォリット、こんどは汝と呼ぶことをやめよう、詩から散文の方へ移るのだ。君は先刻僕の名のことを言ったね。それは僕の心を動かした。しかしわれわれが何であろうとも、われわれは名前に疑問をいだこうではないか。名前も誤ることがある。僕はフェリックス([#ここから割り注]訳者注 繁昌幸福の意[#ここで割り注終わり])という名だ、そして少しも幸福ではない。言葉は嘘《うそ》つきである。言葉がわれわれにさし示すことをむやみに受け入れてはならない。栓《せん》を買わんためにリエージュ([#ここから割り注]訳者注 キルク栓の意[#ここで割り注終わり])の町に手紙を書き、手袋を得んためにポー([#ここから割り注]訳者注 革の意[#ここで割り注終わり])の町に手紙を出すは誤りである([#ここから割り注]訳者注 ファヴォリットの名は寵愛の意を有することを記憶せられたい[#ここで割り注終わり])。ダーリア嬢よ、僕がもし君であったら、ローザと自分を称したい。花にはいい
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