魚屋はそれに答えもしないで足を早めた。その魚屋は約三十分ばかり前には、ジャカン・ラバールを取巻いた群衆のうちにいた、そして彼自身、クロア・ド・コルバの客たちにその午前の気味悪い出会いを話してきかしたのだった。で今彼は自分の席からひそかに居酒屋の亭主に合い図をした。亭主は彼の所へ行った。二人は低い声で少し話しあった。あの男はまた考えに沈んでいた。
 亭主は炉の所に帰ってきて、突然男の肩に手を置いた、そして言った。
「お前さんはここから出て行ってもらおう。」
 男はふり返って、そして穏かに答えた。
「ああ、あなたも知っているんですね。」
「そうだ。」
「私はほかの一軒の宿屋からも追い出された。」
「そしてこの宿屋からも追い出されるんだ。」
「では、どこへ行けと言うんです。」
「他の所へ行くがいい。」
 男は杖と背嚢とを取って、出て行った。
 彼が出てきた時、クロア・ド・コルバからあとをつけてきて、今も彼の出て来るのを待っていたらしい数人の子供たちが、彼に石を投げた。彼は憤って引き返し、杖で子供たちをおどかした。子供たちは鳥の飛びたつように散ってしまった。
 男は監獄の前を通りかかった。門の所に、呼び鐘につけてある鉄の鎖が下がっていた。彼はその鐘を鳴らした。
 潜《くぐ》り戸《ど》が開いた。
「門番さん、」と言って彼は丁寧に帽子をぬいだ、「私を中に入れて今晩だけ泊めて下さるわけにいきませんか。」
 中から答える声がした。
「監獄は宿屋じゃない。捕縛されるがいい。そしたら入れてもらえるんだ。」
 潜り戸はまた閉じられた。
 彼は庭のたくさんある小さな通りにはいった。ただ生籬《いけがき》で囲まれたばかりの庭もあって、通りがいかにもさわやかであった。その庭や生籬のうちに、彼の目にとまった小さな一軒の二階家があって、窓には燈火《あかり》がさしていた。彼は居酒屋でしたようにその窓からのぞいてみた。それは石灰で白く塗った大きな室であって、型付き更紗《さらさ》の布が掛かっている寝台が一つと、片すみに揺籃《ゆりかご》が一つと、数脚の木製の椅子《いす》と、壁にかけてある二連発銃が一つあった。室のまん中の食卓には食事が出されていた。銅のランプが粗末な白布のテーブル掛けを照らし、錫《すず》のびんは銀のように輝いて酒がいっぱいはいっており、褐色《かっしょく》のスープ壺《つぼ》からは湯気が立っていた。食卓には快活淡泊な顔つきをした四十かっこうの男がすわっていて、膝《ひざ》の上に小さな子供が飛びはねていた。そのそばに年若い女がも一人の小児に乳をやっていた。父は笑っており、子供は笑っており、母はほほえんでいた。
 男はこの穏和なやさしい光景の前にしばらくうっとりと立っていた。その心のうちにはどんな考えが浮かんだか? それを言い得るのはただ彼のみであろう。がたぶん彼は、その楽しい家は自分を歓待してくれるかも知れないと思ったろう、そしてかくも幸福に満ちた家からはおそらく少しの憐憫《れんびん》を得らるるかも知れないと。
 彼はきわめて軽く窓ガラスを一つたたいた。
 家の人にはそれが聞こえなかった。
 彼は再びたたいた。
 彼は女がこういうのをきいた。「あなた、だれかきたようですよ。」
「そうじゃないよ。」と夫は答えた。
 彼は三度たたいた。
 夫は立ち上がって、ランプを取り、そして戸の方へ行って開いた。
 それは半ば農夫らしく半ば職人らしい背の高い男であった。左の肩まで届いている大きな皮の前掛けを掛けていて、その上に帯をしめてポケットのようになった所に、槌《つち》や赤いハンケチや火薬入れや種々なものを入れていた。頭はずっと後方に反《そ》らし、広くはだけて襟《えり》を折ったシャツは白い大きな裸の首筋を現わしていた。濃い眉毛、黒い大きな頬鬚《ほほひげ》、ぎろりとした目、下半面がつき出た顔、そしてそれらの上に言葉に現わせない落ち着いた様子が漂っていた。
「ごめんください。」と旅人は言った。「金を出しますから、どうぞ一ぱいのスープを下すって、それから、あの庭の中の小屋のすみに今晩寝かしてもらえませんか。いかがでしょう? 金は差し上げますが。」
「お前さんはどういう人だね。」と主人は尋ねた。
 男は答えた。「ビュイ・モアソンからきた者です。一日歩き通しました。十二里歩いたのです。いかがでしょうか、金は出しますが。」
「私は、」と農夫は言った、「金を出してくれる確かな人なら泊めるのを断わりはしない。だがお前さんはなぜ宿屋に行かないのだ。」
「宿屋に部屋《へや》がないんです。」
「なに、そんな事があるものか。今日は市《いち》の立つ日でもないし、売り出しの日でもない。ラバールの家に行ってみたかね。」
「行きました。」
「それで?」
 旅人は当惑そうに答えた。「なぜだか知りませんが、泊めてくれないんです。」
「それではシャフォー街のあの男の家に行ったかね。」
 男はますます当惑してきた。彼はつぶやいた。
「そこでも泊めてもらえないんです。」
 農夫の顔には疑惑の表情が浮かんだ。彼はその新来の男を頭の上から足の先までじっとながめた。と突然身を震わすようにして叫んだ。
「お前さんは例の男ではあるまいね……。」
 彼は男をじろりとながめて、後ろに三歩|退《さが》って、テーブルの上にランプを置き、そして壁から銃を取りおろした。
 その間に、「お前さんは例の男ではあるまいね[#「お前さんは例の男ではあるまいね」に傍点]……」という農夫の声をきいて、女も立ち上がり、両腕に二人の子供を抱いて、急いで夫の背後に隠れ、胸を露《あら》わにびっくりした目つきをしてその見知らぬ男をこわごわながめながら、低く田舎《いなか》言葉で「どろぼう[#「どろぼう」に傍点]」とつぶやいた。
 それらのことは、想像にも及ばないほどわずかな間に行なわれたのだった。主人はあたかも蝮《まむし》をでも見るように例の男[#「例の男」に傍点]をしばらくじろじろ見ていたが、やがて戸の所へきて言った。
「行っちまえ。」
「どうぞ、」と男は言った、「水を一ぱい。」
「ぶっ放すぞ!」と農夫は言った。
 それから彼は荒々しく戸を閉ざした。そして大きな二つの閂《かんぬき》のさされる音が聞こえた。一瞬の後には雨戸も閉ざされ、鉄の横木のさされる音が外まで聞こえた。
 夜はしだいに落ちてきた。アルプス颪《おろし》の寒い風が吹いていた。暮れ残った昼の明るみで、見なれぬ男は、通りに接したある庭のうちに芝土でできてるように思われる小屋らしいものを認めた。彼は思い切って木|柵《さく》を越えて庭の内にはいった。小屋に近よってみると、入り口といってはきわめて低い狭い開戸《ひらき》がついていて、道路工夫が道ばたにこしらえる建物に似寄ったものであった。彼はそれが実際道路工夫の住居であると思った。彼は寒さと飢えとに苦しんでいた。飢えの方はもう我慢していたが、しかしそこは少なくとも寒さを避け得る場所であった。その種の住居には普通夜はだれもいないものである。彼は腹ばいになって小屋の中にはいりこんだ。中は暖かで、かなりよい藁の寝床が一つあった。彼はしばらくその寝床の上に横たわっていた。すっかり疲れ果てて身を動かすこともできなかったのである。それから背中の背嚢が邪魔になり、またそれは、ありあわせの枕《まくら》となるので、負い皮の留金《とめがね》をはずしはじめた。その時、恐ろしいうなり声が聞えた。彼は目をあげてみた。大きな番犬の頭が、小屋の入り口のやみの中に浮き出していた。
 犬小屋だったのである。
 彼自身も力ある恐ろしい男であった。彼は杖をもって身構え、背嚢を楯《たて》となし、そしてうまく犬小屋から出ることができた。もとより、そのために衣服の破れは更に大きくなったのではあるが。
 彼はまたその庭から外へ出た。しかし犬を近よらせないためにあとずさりしながら、撃剣の方で隠ればら[#「隠ればら」に傍点]と呼ばるる仕方で杖を振り回さなければならなかった。
 漸《ようや》くにして木柵を越えて通りに出たが、彼はもはやただ一人で、宿るべき場所もなく、身を蔽《おお》う屋根も身を避ける所もなく、藁の寝床とあわれな犬小屋からさえも追い出されたのであった。彼はある石の上に、腰をおろすというより倒れてしまった。そこを通る人があったら、彼の叫ぶのを聞いたであろう、「俺《おれ》は犬にも及ばないのか!」
 やがて彼はまた立ち上がって歩き出した。町から出て行った。野の中に何か樹木か堆藁《つみわら》かを見出してそこに身を避けようと思ったのである。
 そして彼はうなだれながらしばらく歩いた。人の住居から遠くへきたと思った頃、目をあげてあたりを物色してみた。野の中にきていた。前には短く刈られた切株に蔽われた低い丘が一つあって、刈り入れをした後のその有り様は刈り込みをした頭のようだった。
 地平は真暗《まっくら》になっていた。それはただ夜のやみばかりのためではなかった。低くたれた雲のためでもあって、雲は丘の上に立ちこめているらしく、しだいに昇って、空をも蔽わんとしていた。けれども、月がまさに出んとする頃、そしてなお中天に暮れ残った明るみが漂っている時、雲は高く空中に一種のほの白い円屋根を形造って、そこから明るみが地上に落ちていた。
 そこで地上は空よりも明るく、妙に気味悪い光景で、貧しげな荒涼たる輪郭の丘は暗い地平の上に青白くぼんやりと浮き出していた。すべての様が醜く卑しく悲しげでまた狭苦しかった。野の中にも丘の上にも一物もなく、ただ数歩前に曲がりくねった無様《ぶざま》な樹木が一本立ってるきりだった。
 この旅の男はもとより、事物の神秘な光景を痛感するほどの知力や精神の微妙な習慣を少しも持ってはいなかった。けれども、今見るその空、その丘、その平野、その樹木、それらのうちには何か深いわびしさがこもっていたので、彼はちょっと立ち止まって思いに沈んだが、突然|踵《くびす》をめぐらした。自然さえも、敵意を有するらしく思える瞬間があるものである。
 彼はまた戻って来た。ディーニュの市門はもう閉ざされていた。ディーニュ市は、宗教戦争のおり長く包囲をささえた所であって、後にこわされてしまったが、一八一五年にはなおその周囲に、方形の塔がついてる古い城壁があったのである。彼はその城壁の破れ目を通ってまた町の中にはいった。
 もうたぶん晩の八時くらいになっていたろう。彼は町の様子を知らないので、再びただむやみに歩き出した。
 そのようにして彼は県庁の所にき、それから神学校の所まできた。大会堂の広場を通る時には、彼は会堂に対して拳《こぶし》をさしつけた。
 その広場の角に印刷屋があった。エルバ島から持ちきたされ、ナポレオン自身の口授になった、皇帝の宣言及び軍隊に対する親衛の宣言が初めて印刷せられたのは、そこにおいてであった。
 全く疲れはててもはや何らの望みもなく、彼はただ、その印刷所の門口にあった石の腰掛けの上に身を横たえた。
 その時、一人の年老いた女が会堂から出てきた。彼女はやみのうちに横たわってるその男を認めた。「あなたはそこで何をしていますか、」と彼女は言った。
 彼は荒々しくそして怒って答えた。「親切なお上《かみ》さんだな、私は御覧のとおり寝ているんですよ。」
 実際親切なお上さんという名前に至当な彼女は、R某侯爵夫人であった。
「この腰掛けの上で?」と彼女は言った。
「私は十九年の間木の寝床に寝起きしたのです。」と男は言った。「今日は石の寝床の上に寝るんです。」
「あなたは軍人だったのですか。」
「そうですよ、軍人です。」
「なぜ宿屋へお出でなさらないのです。」
「金がありませんから。」
「困りましたね、」とR夫人は言った。「私は今四スーきり持ち合わせがありませんが。」
「いいからそれを下さい。」
 男は四スーを受け取った。R夫人は続けて言った。「そればかりでは宿屋には泊まれませんでしょう。ですがあなたは宿屋に尋ねてみましたか。そんなふうに一晩を過ごすことはできるものではありません。きっと寒くて、また腹もお
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