うしばらく刈られないでいるらしく、そして少し伸びはじめていたからである。
だれも彼を知っている者はなかった。明らかに一人の通りすがりの男にすぎなかった。どこからきたのであろうか。南方から、たぶん海辺からきたのであろう。というのは、彼がディーニュにはいってきたのは、七カ月以前にナポレオンがカーヌからパリーへ行く時に通ったのと同じ道からであった。この男は終日歩きづめだったに違いない。大変疲れているように見えていた。下手《しもて》の昔の市場のほとりの女どもが見たところによると、彼はガッサンディ大通りの並木の下に立ち止まって、そのはずれにある泉の水を飲んだ。大変|喉《のど》がかわいていたにちがいない。彼の後をつけて行った子供らは、彼がそれからまた二百歩ばかり行って、市場の泉の所に立ち止まって水を飲むのを見た。
彼はポアンシュヴェル街の角まで行って左に曲がり、市役所の方へ足を運んだ。彼は市役所にはいり、それから十五分ばかりしてまた出てきた。門のそばの石のベンチに憲兵が一人腰をかけていた。それは、ドルーオー将軍が三月四日に、驚駭《きょうがい》したディーニュ市民の群衆に向かって、ジュアン湾([#ここから割り注]訳者注 ナポレオンが一八一五年三月一日エルバ島より再びフランスに上陸したる湾[#ここで割り注終わり])の宣言を読みきかすために上った石である。旅の男は帽子をぬいで、丁寧にその憲兵に礼をした。
憲兵は彼に答礼もせず、彼を注意深くうちながめ、なおしばらく彼の後ろを見送ったが、それから、市役所の中にはいった。
当時ディーニュの町にはクロア・ド・コルバという看板のりっぱな宿屋があった。その主人はジャカン・ラバールといって、昔教導兵でありグルノーブルにトロア・ドーファンの看板の宿屋を持っている他のラバールという者の親戚《しんせき》であるというので、町でかなり尊敬されていた。皇帝上陸の際には、このトロア・ドーファンの宿屋について多くの風説がその地方に伝えられたものである。ベルトラン将軍が馬車屋に仮装して一月にしばしばそこに旅をして、兵士らにクロア・ドンヌール勲章を分与し、市民らに多くの金貨を与えた、というような噂《うわさ》が立てられていた。が事実はこうである、グルノーブルにはいってきた時、皇帝は知事の邸宅に行くのを断わり、私は知り合いの男の家にゆくのだから[#「私は知り合いの男の家にゆくのだから」に傍点]と言って、トロア・ドーファンの宿屋に行ったのであった。そのトロア・ドーファンのラバールの光栄は、二十五里へだてたクロア・ド・コルバのラバールの上にまで反映していた。町では彼のことをグルノーブルの男の従弟[#「グルノーブルの男の従弟」に傍点]だと言っていた。
旅の男はこの地方で最上等のその宿屋の方へ歩みを向けた。そしてすぐ街路に開かれてる料理場にはいった。竈《かまど》はみな火が燃えており、炉には威勢よく炎が立っていた。主人はまた同時に料理人頭であって、竈《かまど》や鍋《なべ》を見て回り、馭者《ぎょしゃ》たちのためにこしらえる旨《うま》い食事の監督をし、ひじょうに忙しかった。馭者たちが隣の室で声高に笑い興じてるのも聞こえていた。旅をしたことのある人はだれでも知ってる通り、およそ馭者たちほどぜいたくな食事をする者はいない。肥った山鼠《モルモット》は白鷓鴣《しろやっこ》や松鶏《らいちょう》と並んで、長い鉄ぐしにささって火の前に回っており、竈の上には、ローゼ湖の二|尾《ひき》の大きな鯉《こい》とアロズ湖の一尾の鱒《ます》とが焼かれていた。
主人は、戸があいて新しくだれかはいってきた音をきいて、竈から目を離さずに言った。
「何の御用ですか。」
「食事と泊まりです。」と男は言った。
「訳ないことです。」と主人は言った。その時彼はふり向いて旅人の様子をじろりとながめたが、つけ加えて言った。「金を払って下されば……。」
男はポケットから皮の大きい財布を取り出して答えた。
「金は持っています。」
「では承知しました。」と主人は言った。
男は財布をポケットにしまい、背嚢をおろし、それを戸のそばに置き、手に杖を持ったままで、火のそばの低い腰掛けの所へ行って腰をおろした。ディーニュは山間の地であって、十月になれば夜はもう寒かった。
その間主人は、あちらこちらへ行ききしながら、旅人に目をつけていた。
「すぐに食事ができますか。」と男は言った。
「ただ今。」と主人は言った。
その新来の客がこちらに背を向けて火に当たっているうちに、しっかりした亭主のジャカン・ラバールはポケットから鉛筆をとり出して、それから窓の近くの小卓の上に散らばっていた古い新聞の片すみを引き裂いた。彼はその欄外の空所に一二行の文句を書きつけ、それを折って別に封もせずに、料理手伝いや小使いをやっているらしい子供に渡した。亭主が耳もとに一言ささやくと子供は市役所をさしてかけて行った。
旅人はそれらのことには少しも気がつかなかった。
彼はも一度尋ねた。「食事はすぐですか。」
「ただ今。」と主人は言った。
子供は帰ってきた。紙片を持ち戻っていた。主人は返事を待っているかのように急いでそれを披《ひら》いた。彼は注意深くそれを読んでいるらしかったが、それから頭を振って、しばらくじっと考え込んだ。ついに彼は一歩旅人の方へ近よった。旅人は何か鬱々《うつうつ》と考えに沈んでいるらしかった。
「あなたは、」と主人は言った、「お泊めするわけにいきません。」
男は半ば席から立ち上った。
「どうして! 私が金を払うまいと心配するんですか。前金で払ってほしいんですか。金は持っていると言ってるではないですか。」
「そのことではありません。」
「では、いったい何です。」
「あなたは金を持っている……。」
「そうです。」と男は言った。
「だが私の所に、」と主人は言った、「室がないのです。」
男は落ち着いて口を開いた。「廐《うまや》でもいい。」
「いけません。」
「なぜ?」
「どこにも馬がはいっています。」
「それでは、」と男はまた言った、「物置きのすみでもいい。藁《わら》が一束あればいい。が、そんなことは食事の後にしましょう。」
「食事を上げることはできません。」
その宣告は、抑《おさ》えられてはいるが、しかし断固たる調子でなされたので、男には重々しく響いたらしかった。彼は立ち上がった。
「ええッ! だが私は腹が空《す》ききってるんだ。私は日の出から歩き通した。十二里歩いたんだ。金は払う。何か食わしてくれ。」
「何もありません。」と主人は言った。
男は笑いだした、そして炉や竈《かまど》の方へふり向いた。
「何もない! そしてあそこのは?」
「あれは約束のものです。」
「だれに?」
「馭者の方たちに。」
「幾人いるんだい。」
「十二人。」
「二十人分くらいはあるじゃないか。」
「すっかり約束なんです、そしてすっかり前金で払ってあるんです。」
男は再び腰をおろした、そして別に声を高めるでもなく言った。
「私は宿屋にいるのだ。腹がすいている。ここを動きはしない。」
そこで主人は彼の耳元に身をかがめて、彼を慄然《ぎょっ》とさしたほどの調子で言った。「出てゆきなさい。」
その時旅人は前かがみになって、杖の先の金具の所で火の中に燃え残りを押しやっていたが、急にふり返った。そして彼が何か答弁しようとして口を開いた時に、主人はじっと彼を見つめて、やはり低い声でつけ加えた。「さあもう文句を言うには及ばない。君の名を言ってあげようか。君はジャン・ヴァルジャンというのだ。それから君がどんな人だか言ってあげようか。君がはいって来るのを見て、あることを感づいたんだ。私は市役所に人をやった。そしてここに役所からの返事がある。君は字が読めるだろう。」
そう言いながら彼はその見知らぬ男へ、宿屋と市役所との間を往復した紙片をすっかりひろげて差し出した。男はその上に一|瞥《べつ》を与えた。亭主はちょっと沈黙の後にまた言った。
「私はだれに向かっても丁寧にするのが習慣《ならわし》だ。出て行きなさい。」
男は頭をたれ、下に置いてる背嚢をまた取り上げ、そして出て行った。
彼は大通りの方へ進んで行った。はずかしめられ悲しみに沈んでいる者のように、彼は人家のすぐ傍《わき》に寄って、ただ当てもなくまっすぐに歩いて行った。一度も後ろを振り返らなかった。もし振り返ったならば彼は、クロア・ド・コルバの亭主が入り口に立っていて、宿の客人たちや通りすがりの人たちにとりかこまれて、声高に話しながら彼の方を指《さ》しているのを見たであろう。そしてまた、群集の目付の中にある軽侮や恐怖の色によって、彼がやってきたことはやがて町中の一事件となるだろうということを見て取ったであろう[#「見て取ったであろう」は底本では「見て取ったのであろう」]。
が彼はそれらのことを何にも見なかった。絶望しきった者は自分の後ろを振り返り見ないものである。悪い運命が自分の後について来るのをあまりによく知っている。
彼はそうしてしばらく歩いて行った。ちょうど悲しみに沈んだ時に人がなすように、知らない通りをむやみに歩きながら疲れも忘れてただ歩き続けた。と突然彼は激しく空腹を感じた。夜は迫っていた。彼は何か身を宿すべき場所はないかと思ってあたりを見回した。
りっぱな宿屋は彼に対して閉ざされたのである。彼は粗末な居酒屋《いざかや》か貧しい下等な家をさがした。
ちょうど通りの向こうの端に燈火《あかり》がひらめいていた。鉄の支柱につるされている一本の松の枝が薄暮のほの白い空に浮き出していた。彼はそこへ行ってみた。
果してそれは一軒の居酒屋であった。シャフォー街にある居酒屋であった。
旅人はちょっと立ち止まって、窓からその中をのぞいてみた。天井の低い室のうちは、テーブルの上に置かれた小さなランプと盛んな炉の火とで照らされていた。四五人の者が酒を飲んでおり、主人は火に当たっていた。自在|鈎《かぎ》につるしてある鉄の鍋は火に煮立っていた。
その居酒屋はまた同時に一種の宿屋であって、はいるには二つの戸口があった。一つは通りに開《あ》いているし、一つは廃物がいっぱい散らかってる小さな中庭に開いている。
旅人は通りに面した入り口からはいることをはばかった。彼は中庭にはいりこみ、なおちょっと足を止め、それからおずおずと※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》をあげて戸を押した。
「だれだ、そこに居るのは。」と主人は言った。
「晩飯と一泊とをお願いしたいんです。」
「よろしい。晩飯と一泊ならここでできる。」
彼ははいってきた。酒を飲んでいた人々は皆ふり向いた。ランプがその半面を照らし炉の火が他の半面を照らしていた。彼が背嚢をおろしている間、人々はしばらく彼をじろじろながめた。
主人は彼に言った。「火がおこっている。晩飯は鍋で煮えているから、まあこっちへきて火に当たりなさるがいい。」
彼は炉火のそばに行って腰を掛けた。疲れきった両足を火の前に伸ばした。うまそうなにおいが鍋から立っていた。目深にかぶった帽子の下から見えている彼の顔のうちには、安堵《あんど》の様子と絶えざる苦しみから来る険しい色とがいっしょになって浮かんでいた。
それはまたしっかりした精悍《せいかん》なそして陰気な顔つきであった。変に複雑な相貌で、一見しては謙譲に見えるが、やがて峻酷《しゅんこく》なふうに見えて来る。目はちょうどくさむらの下に燃ゆる火のように眉毛《まゆげ》の下に輝やいていた。
ところが、テーブルにすわっていた人々のうちに一人の魚屋がいた。彼はこのシャフォー街の居酒屋にやって来る前に、自分の馬をラバールの家の廐《うまや》に預けに行ったのだった。また偶然その日の午前にも、彼はその怪しい男がブラ・ダスと……(名前は忘れたがエスクーブロンであったと思う)との間を歩いているのに出会った。男はもう大変疲れているらしく、彼に出会うと、馬の臀《しり》の方にでも乗せてくれないかと頼んだ。
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