すきでしょう。慈善に一晩泊めてくれる人もありましょうのに。」
「どの家《うち》も尋ねてみたんです。」
「それで?」
「どこからも追い出されたんです。」
その「親切なお上《かみ》さん」は男の腕をとらえ、広場の向こう側にある司教邸と並んだ小さな低い家を指《さ》し示した。
「あなたは、」と彼女は言った、「どの家も尋ねてみられたのですか。」
「ええ。」
「あの家を尋ねましたか。」
「いいえ。」
「尋ねてごらんなさい。」
二 知恵に対して用心の勧告
その晩ディーニュの司教は町を散歩した後、かなり遅くまで自分の室にとじこもっていた。彼は義務[#「義務」に傍点]に関する大著述にとりかかっていた。この著述は不幸にも未完成のままになっている。司教は教父や博士らがその重大な問題について述べた所のものを注意深く詮索《せんさく》していた。彼の著述は二部に分かたれていて、第一はすべての人の義務、第二はおのれの属する階級に応じての各人の義務。すべての人の義務は大なる義務であって、それに四種ある。使徒マタイはそれをあげている、神に対する義務(マタイ伝第六章)自己に対する義務(同第五章二十九、三十節)隣人に対する義務(同第七章十二節)万物に対する義務(同第六章二十、二十五節)。他のいろいろな義務については、司教は種々のものに示され述べられてるのを見いだした、君主および臣下の義務はローマ書に、役人や妻や母や年若き者のそれはペテロ書に、夫や父や子供や召し使いのそれはエペソ書に、信者のそれはヘブライ書に、処女のそれはコリント書に。司教はすべてそれらの教えからよく調和したる一の全体を作らんと努力し、そしてそれを人々に示そうと思っていた。
彼は八時になるまでまだ仕事にかかって、膝の上に大きな書物をひろげ、小さな四角の紙片に骨をおって物を書いていた。その時マグロアールはいつもの通り、寝台のそばの戸棚から銀の食器を取りにはいってきた。やがて司教は、食卓がととのい、たぶん妹が自分を待っていると思って、書物を閉じ、机から立ち上がり、食堂にはいってきた。
食堂は暖炉のついてる長方形の室で、戸口は街路に開いており(前に言ったとおり)窓は庭の方に向いていた。
マグロアールは果して食卓を整えてしまっていた。
用をしながら、彼女はバティスティーヌ嬢と話をしていた。
ランプが一つテーブルの上に置かれていた。テーブルは暖炉の近くにあった。暖炉にはかなり勢いよく火が燃えていた。
この六十歳を越した二人の女はたやすく描き出すことができる。マグロアールは背の低い肥った活発な女である。バティスティーヌ嬢は穏和なやせた細長い女で、兄よりも少し背が高く、茶褐色《ちゃかっしょく》の絹の長衣を着ている。それは一八〇六年にはやった色で、その頃パリーで買ってから後ずっと着続けたものである。一ページを費やしても言いきれぬほどのことを一語で言うことのできる卑俗な言い方をかりて言えば、マグロアールは田舎女[#「田舎女」に傍点]の風をそなえており、バティスティーヌ嬢は貴婦人[#「貴婦人」に傍点]の風をそなえていた。マグロアールは筒襞《つつひだ》のある白い帽子をかぶり、頭には家の中でただ一つの女持ちの飾りである金の十字架をつけ、大きい短かい袖のついた黒い毛織りの長衣からまっ白な襟巻《えりまき》をのぞかせ、赤と緑の格子縞《こうしじま》の木綿の前掛けを青いひもで帯の所にゆわえ、同じ布の胸当てを上の両端で二本の留め針でとめ、足にはマルセイユの女のように大きな靴と黄いろい靴下をはいていた。バティスティーヌ嬢の長衣は一八〇六年式の型で、胴が短く、裾《すそ》が狭く、肩襞《かたひだ》のある袖で、ひもとボタンとがついていた。灰色の頭髪は小児の鬘[#「小児の鬘」に傍点]といわれる縮れた鬘《かずら》に隠されていた。マグロアールは怜悧《れいり》活発で善良な風をしていた。不ぞろいにもち上がった口の両端と下|脣《くちびる》より大きい上脣とは、いくらか気むずかしい勝気な風を示していた。閣下が黙っている間は、彼女は尊敬と気ままとの交じったきっぱりした調子で話しかけるが、閣下が一度口を開くと、前に言った通り、彼女はバティスティーヌ嬢と同様に穏かにその言に服するのであった。バティスティーヌ嬢の方は自分から口をきくことさえもなかった。彼女はただ彼の言うことを聞き、彼の気分をそこなうまいとするのみだった。若い時でさえ彼女はきれいではなかった。ばかに目につく大きな青い目ときわ立った長い鼻とを持っていた。しかしその全体の顔つきと全体の人柄とは、初めに言った通り、言うに言われぬ温良さを示していた。彼女はいつも温厚なるべく定められていた。
しかし信仰と慈悲と希望との三つの徳は、静かに人の魂を暖めるものであって、彼女においてもまた次第にその温良さを神聖の域にまで高めたのであった。自然は彼女を単に一個の牝羊《めひつじ》に造ったが、宗教は彼女を天使たらしめた。あわれなる聖《きよ》き女よ! 消え失せし楽しき思い出よ!
バティスティーヌ嬢はその晩司教の家に起こったことを爾来《じらい》しばしば繰り返し話したので、その詳細を思い出し得る人は今もなおたくさんある。
さて司教が食堂にはいってきた時、マグロアールは元気に話をしていた。いつも老嬢によく話すことで司教にもなじみの事がらだった。すなわち入り口の戸の締まりに関してであった。
夕食のために何か買い物に行った時、マグロアールは、方々で話されていることを聞いてきたらしい。悪い顔つきの風来漢の噂が種々なされていた。怪しい浮浪人がやってきた。町のどこかにいるに違いない。今晩遅く家に帰ろうとでもする人があれば、その男に出会って悪いことが起こるかも知れない。その上、県知事と市長とが反目して何か事件を起こしては互いにおとしいれようとしている際なので、警察の働きもすこぶるまずい。それで賢い者はみずから警察の働きをなし、みずから警戒すべきである。そして、堅く締まりをし閂《かんぬき》をさし横木を入れておかなければならない、よく戸を閉ざしておかなければならない[#「よく戸を閉ざしておかなければならない」に傍点]。
マグロアールはその終わりの文句に力を入れた。しかし司教は、かなり寒さを感じていた自分の室からやってき、暖炉の前にすわって暖まり、それから何か他のことを考えていて、マグロアールが口にした言葉を別に心にかけなかった。マグロアールはそれを再び繰り返した。その時バティスティーヌ嬢は、兄の気にさわらないでしかもマグロアールを満足させようと思って、おずおずと言ってみた。
「お兄さん、マグロアールの言ってることを聞かれましたか。」
「何かぼんやり聞いたようだが。」と司教は答えた。それから半ば椅子を回して、両手を膝の上に置き、わけなく楽しげな親しい顔を老婢《ろうひ》の方へあげた。火が下からその顔を照らしていた。「ええ、何だい? 何かあるのかね? 何か恐ろしい危険でもあるというのかね。」
するとマグロアールは、またその話をすっかりやり直して、自分で気もつかなかったがいくらか誇張して話した。一人の放浪者が、一人の非人が、ある危険な乞食《こじき》が、今ちょうど町にきているらしい。その男はジャカン・ラバールの家に行って泊めてもらおうとしたが、宿屋では受け付けなかった。その男がガッサンディの大通りから町にはいってきて、薄暗がりの通りをうろついている所を、見かけた人がある。背嚢《はいのう》と繩《なわ》とを持ってる恐ろしい顔つきの男である。
「本当かね。」と司教は言った。
司教がそのように問いかけたことにマグロアールは力を得た。彼女には司教がいくらか心配しているのだと思えた。彼女は勝誇ったように言い進んだ。
「本当ですとも。そのとおりでございますよ。今晩、町に何か不幸なことが起こります。皆そう申しております。その上に警察がいかにも手ぬかりなのです(彼女はうまくそのことをくり返したのである)。山国なのに、町には晩に燈火《あかり》もないのですから! 出かけるとします。暗やみばかりです。それで私は申すのです、そしてまた、お老嬢《じょう》さままで私のように申されて……。」
「私?」と妹はそれをさえぎった。「私は何も言いはしないよ。お兄様のなされることは皆いいのだからね。」
マグロアールはその異議も聞かないがように言葉を続けた。
「私どもはこの家がごく無用心だと申すのです。もしお許しになりますならば、錠前屋のポーラン・ミューズボアの所へ行って、前についていた閂《かんぬき》をまた戸につけに来るように申しましょう。閂はあの家にありますので、すぐにできます。せめて今晩だけでも閂をつけなければいけませんですよ。だれでも通りがかりの人が把手《とって》で外からあけることのできるような戸は、何より一番恐ろしいものではございませんか。それに旦那《だんな》様はいつでもおはいりなさいと言われます、その上夜中にでも、おはいりという許しがなくてもはいれるのですもの……。」
その時、だれかがかなり強く戸をたたいた。
「おはいりなさい。」と司教は言った。
三 雄々しき服従
戸は開いた。
それは急に大きく開いて、あたかもだれかが力を入れて決然と押し開いたようだった。
一人の男がはいってきた。
この男をわれわれは既に知っている。泊まり場所をさがしながら先刻うろついていた旅人である。
彼ははいってきて一歩進み、そしてうしろに戸を開いたまま立ち止まった。肩に背嚢《はいのう》を負い、手に杖を持ち、目には荒々しい大胆な疲れたそして激した色があった。暖炉の火が彼を照らしていた。嫌悪《けんお》の感を起こせるような姿で、まるできみ悪い化け物のようだった。
マグロアールは声を立てる力さえもなかった。彼女は身震いをして茫然《ぼうぜん》と立ちつくした。
バティスティーヌ嬢はふり向いてはいってきた男を見た。そして驚いて半ば身を起こしたが、それから静かに暖炉の方へ頭をめぐらして、兄をながめた。そして彼女の顔は深い静けさと朗らかさとに帰った。
司教は穏かな目付きでその男を見つめていた。
彼がその新来の男にたぶん何しにきたかを尋ねるために口を開いた時、男は一度に両手を杖の上に置いて、老人と二人の婦人とをかわるがわる見回して、そして司教が口をきくのを待たないで高い声で言った。
「お聞き下さい。私はジャン・ヴァルジャンという者です。私は懲役人です。私は徒刑場で十九年間過ごしました。私は四日前に放免されて、ポンタルリエへ行くため旅に上ったのです。ツーロンから四日間歩いたのです。今日は十二里歩きました。夕方この地について宿屋に行ったのですが、追い出されました。市役所に黄いろい通行券を見せたためです。見せなければならなかったのです。も一軒の宿屋にも行ってみましたが、出て行けと言うんです。どちらでもそうです。だれも私を入れてくれません。監獄に行けば、門番が開いてくれません。犬小屋にもはいりました。が犬も人間のように、私に噛《か》みついて追い出してしまったのです。私がどういう者であるか犬も知っていたのでしょう。私は野原に出て行って、星の下に野宿《のじゅく》をしようと思いました。ところが星も出ていません。雨が降りそうでした。雨の降るのを止めてくれる神様もないのかと私は思いました。そして私は、戸の陰でも見つけようと思ってまた町にはいってきました。そして向こうの広場の所で石の上に寝ようとしていました。するとある親切なお上《かみ》さんがあなたの家《うち》を指《さ》して、あそこを尋ねてごらんなさいと言ってくれました。それで尋ねてきたのです。ここはいったい何という所ですか。あなたは宿屋さんですか。私は金は持っています。自分の積立金です。徒刑場で十九年間働いて得た百九フラン十五スーです。金はきっと払います。それが何でしょう。金は持っているんですから。私はたいへん疲れています、十二里歩いたのです、たいへん腹がへっています。泊めていただけましょうか。」
「マグロアールや、
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