ポニーヌ、アゼルマ、アンジョーラ、ガヴローシュ、そしてまたある意味においてジャヴェル、その他多くの者が。ただこの世において救われた者は、マリユスとコゼットのみであった。なぜであるか? 彼らまでも破滅の淵《ふち》に陥ったならば、この物語はあまりに悲惨であったろうから。さはあれ、それらももはや一つの泡沫《ほうまつ》にすぎなかったのである。大革命とナポレオンとの二つの峰を有する世潮にすべてのものを押し流し、民衆はその無解決の流れのうちに喘《あえ》いでいた。ゆえに、ワーテルローの戦いと、王政復古と、一八三二年の暴動と、社会の最下層と、パリーの市街の下の下水道とが、詳細に述べられなければならなかったのである。
 以上がこの物語の大よその内容である。
 一八四五年四十四歳にしてヴィクトル・ユーゴーは、詩作の筆を折って政界に身を投じ、四八年二月の革命以後しだいに民主的傾向に陥り、五一年十二月ナポレオン三世によってなされたクーデターに対しては、熱烈なる攻撃を試み、ついに身の危険を感ずるや国外に逃亡したが、ついで公に追放せられた。彼は初めブラッセルに赴《おもむ》いたが、次にイギリス海峡の小島ゼルセーに行き、終わりにゲルヌゼーに赴いた。その間、一八五八年より六二年まで五年間の瞑想《めいそう》と思索とに成ったのがこの物語である。彼はその中に脳裏にあるものすべてを投げ込んだ。熱烈なる共和党員であった父より生まれ、追放令を受けた老将軍と還俗した老牧師との家庭教育を受け、詩人としてはロマンティック運動の主将であり、政客としては民主派であり、主義よりもむしろ熱情の人であった彼ヴィクトル・ユーゴーの脳裏に、最もあざやかに浮かんだところのものは、実に社会の底に呻吟《しんぎん》するレ・ミゼラブル(惨めなる人々)であり、彼らを作り出した社会の欠陥であり、彼らが漂う時運の流れであった。そして彼らを描くにあたって、奔放なるおのれの想像と思想とに何らの抑制をも加えなかった。かくしてできた物語をさして、環境と群集との詳細な描写のゆえにゾラの真の源であるといい、また、空想的な筋の運びと類型的な人物とのゆえに全くのロマンティックの作であるといい、あるいは、青年マリユスをもって作者自身であるということは、この物語の価値に何かをつけ加えるものでもなくまた何かを減ずるものでもない。作者は何よりもまず詩人であった、人生の詩
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