の屈辱と労役とのうちに、彼は知力とまた社会に対する怨恨《えんこん》とを得た。そして獄を出ると、彼が第一に出会ったものは、すべてを神に捧《ささ》げつくしたミリエル司教であった。そこに彼の第一の苦悶《くもん》が生まれる。神と悪魔との戦いである。苦悶のうちに少年ジェルヴェーについての試練がきた。彼は勇ましくも贖罪《しょくざい》の生活にはいり、マドレーヌなる名のもとに姿を隠して、モントルイュ・スュール・メールの小都市において事業と徳行とに成功し、ついに市長の地位を得た。しかし彼の前名を負って重罪裁判に付せられたシャンマティユーの事件が起こった。そこに彼の第二の苦悶が生まれる。良心と誘惑との戦いである。彼は自ら名乗って出て、再び牢獄の生活が始まった。しかし彼は巧みに獄を脱して、不幸なる女ファンティーヌへの生前の誓いを守って、彼女の憐《あわ》れなる娘コゼットを無頼の者の手より取り返し、彼女を伴なってパリーの暗黒のうちに身を隠した。そしてそこにおいてあらゆる事変は渦を巻いて彼を取り囲んだ。警官の追跡、女修道院の生活、墓穴への冒険、浮浪少年の群れ、熱情のマリユス、無為のマブーフ老人、ABCの秘密結社、ゴルボー屋敷、無頼なるテナルディエの者ども、少年ガヴローシュ、マリユスとコゼットの恋、一八三二年六月の暴動、市街戦、革命児アンジョーラ、下水道中の逃走、ジャヴェルの自殺、マリユスとコゼットとの結婚、ジャン・ヴァルジャンの告白。そこに彼の第三の苦悶が生まれる。この世の有と無との戦いである。すべてを失った後、彼は死と微光との前に立つ。マリユスとコゼットとに向かって彼は言う、「……お前たちは祝福された人たちだ。私はもう自分で自分がよくわからない。光が見える。もっと近くにおいで。私は楽しく死ねる。お前たちのかわいい頭をかして、その上にこの手を置かして下さい。」かくしてパリーの墓地の片すみの叢《くさむら》の中に、一基の無銘の石碑が建った。
 何故に無銘であったか? それは実に「永劫《えいごう》の社会的処罰」を受けた者の墓碑であったからである。一度|深淵《しんえん》の底に沈んだ彼は、再び水面に上がることは、いかなる善行をもってしてもこの世においてはできなかったのである。いや不幸なのは彼のみではなかった。種々の原因のもとに「社会的窒息」を遂げた多くの者がそこにはいた。ファンティーヌ、テナルディエ、エ
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