ないかとも疑えるし、前から知っていたのではないかとも疑えた。
 然し、その時、彦一ははっと気付いたのである。あのことについて、聊かの罪悪をも彼は感じなかったし、今でも感じてはいない。だが、なにか、ものの影がさしてきたのだ。何ものの影であろうか。得体の知れないその影が、あの現場に立ち罩めているし、それが彼の上にまで覆い被さってくるようだった。
 彼は田中さんを見つめながら言った。
「私の言葉を信じて下さらなければいけません。あれはまったく、私がしたことです。私自身が手を下したのです。その証拠には、あの死体が横たわっていた、一本松の葦の茂みのほとりに、何ものとも知れない暗い影を私は感ずるし、それが私の上にまで被さってくる。こんなことは、当の本人でなければ分るものではない。ね、そうでしょう。勿論私は、罪悪を感じたり、自責の念を覚えたりはしません。彼奴が悪いのだ。」
「そうだ、先方が悪い。」
「然し、なにか影がさしてくる……。」
「そんなもの、焼き捨てればいい。」
「焼き捨てる……。」
 彦一は夢からさめたかのように、ふと苦笑を浮べた。
「紙屑みたいにはいきませんよ。」
「いや、紙屑だって容易じゃない。」
「だから、どうなんです。」
「焼き捨てるのさ。」
 彦一はまた腹が立ってきた。いい加減、狂人のなぶり者になってるような感じだ。
 彼は黙って立ち上り、挨拶もせずに歩き去った。田中さんは草の中にしゃがみこんだまま、空を仰ぎ見ていた。

 翌日の払暁、一本松の葦のほとりに火の手があがった。もとより、その辺に人家はないから火災ではない。然し火先や煙の勢が大きく、ただの焚火とも見えないので、近くの人々が行ってみると、田中さんが葦の茂みを焼いているのだった。木炭の空俵や、藁束や、新聞紙などを、夥しく積み上げて、それに火をつけ、その火種をあちこちに投げ散らして、葦を焼いてるのだ。葦はまだ霜枯れておらず、容易に燃えないのを、田中さんは懸命に燃やそうとしている。
 集まってきた人々は驚いて、田中さんを制止しようとしたが、なかなか言うことをきかなかった。衆人を全く無視した態度で、そして凄い形相で、黙々として火を燃やし続けてるのである。
 その朝、彦一は珍らしく早く眼を覚した。彼の職業は保険会社の外交員で、時には小さな劇場の演出を手伝い、また稀に詩を書いていた。詩作は一文にもならず、芝居の方
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