からは僅少な不時の収入があり、生活は主として外交員の仕事で立てていたが、彼にとっての重要さは、全くその逆だった。保険会社の外交員ほど下らない職業はないと思って、その職業を選んだのである。随って、仕事に勤勉でも忠実でもなかった。朝は遅くまで寝ていた。
ところがその朝、なにか気にかかる心地がしたし、室外の空気にざわめきが感ぜられたので、寝床の中に落着けず、起き上ってみた。そして田中さんの一件を知った。
彼は服装をととのえるとすぐ、一本松のところへ駆けつけた。
田中さんは衆人にかこまれながら、燃え上る炭俵を見つめていた。一人の警官が、その手を押えていた。
田中さんは大きな声で叫んだ。
「ここで、何事が起ったか、私は知ってる。」
ちょっと息をついた。
「亡霊の影が出ることも、私は知ってる。」
またちょっと息をついた。
「葦なんか茂らしておくからだ。」
警官をちらと見た。
「警察の怠慢だ。だから私が、葦を焼き捨ててやるのだ。」
彼はあたりをぐるりと見廻した。そして彦一の顔に眼をとめた。
「うむ、丁度よく来たな。あとは君が焼くんだ。」
そして彼は安心したのか、もうけろりとした表情で、警官から導かれるまま、近くの警察派出所へおとなしくついて行った。
数名の人々が後に続き、彦一も一番後からついて行った。
派出所の中で、彼は前と同じようなことを数言怒鳴った。それきりで、もう口を利かなかった。彦一の方は見向きもしなかった。
彼の身内の者らしい若い男と、町内の有力者らしい老人とが、警官にしきりと何やら釈明していた。一通りの調書を取られて、彼はその二人に守られ、先に立ってすたすた歩み去った。
別に危険な狂人というわけではなかったのだ。家庭も裕福な方で、彼は謂わば隠居の身の上だった。
事はそれで済んだ。葦の茂みのそばの燃やし火も直ちに消し止められていた。
然し、田中さんは拘禁されてるわけではなく、葦はまだ茂っており、いつどういうことが起るか分らなかった。不安な空気が漂っていた。それで、警官や有力者の肝入りで、葦の茂みのある土地の所有者と談合の上、葦はすっかり刈り取られることになった。
松の古木一本だけで、その下の方に、浅い泥沼が広がり、さっぱりした土地になった。
少年の怪死事件は、いろんな謎を秘めて、未解決のまま残された。
おれはまだ自由を欲する、と彦一は
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