時に一の場所をしか占め得ないということ、もしくは、二つのものが同時に一の場所を占め得ないということは、それは嘘であると、そういうことを考える「私」なのである。人間描写に於ては、描写が生々することは真実を殺すものだと、そういうことを考える「私」なのである。知性は感性の特殊形にすぎないと、そういうことを考えそうな「私」である。そうした「私」を以て、対象にじかにぶつかってゆく時、という意味は対象を芸術的に書き生かそうとする時、真実に奉仕すればするほど、「私」によって凡てを濾過せざるを得なくなる。この濾過は、恐らく作者にとっては苦痛であろう。然しそれが如何に苦痛であろうとも、その「私」が作者の「鷲」であるならば、鷲を美しく育てるより外はあるまい。
「紋章」の美しさは飼主の肝臓を食って生きる鷲の美しさである。文学というものは大抵、そういう美しさを持っている。それだけで足りないことは、作家よりも読者の方がより多く知っているだろう。だが、鷲を愛し続けたプロメテは、やはり鷲を愛していくより外に方法はない。思えば、現代の作家たちは、ひどく窮極のところまで押しやられたものだ。
だが、この鷲、時々遠く山野
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