時に一の場所をしか占め得ないということ、もしくは、二つのものが同時に一の場所を占め得ないということは、それは嘘であると、そういうことを考える「私」なのである。人間描写に於ては、描写が生々することは真実を殺すものだと、そういうことを考える「私」なのである。知性は感性の特殊形にすぎないと、そういうことを考えそうな「私」である。そうした「私」を以て、対象にじかにぶつかってゆく時、という意味は対象を芸術的に書き生かそうとする時、真実に奉仕すればするほど、「私」によって凡てを濾過せざるを得なくなる。この濾過は、恐らく作者にとっては苦痛であろう。然しそれが如何に苦痛であろうとも、その「私」が作者の「鷲」であるならば、鷲を美しく育てるより外はあるまい。
「紋章」の美しさは飼主の肝臓を食って生きる鷲の美しさである。文学というものは大抵、そういう美しさを持っている。それだけで足りないことは、作家よりも読者の方がより多く知っているだろう。だが、鷲を愛し続けたプロメテは、やはり鷲を愛していくより外に方法はない。思えば、現代の作家たちは、ひどく窮極のところまで押しやられたものだ。
 だが、この鷲、時々遠く山野へ逃げ去ってゆく気まぐれを起す。その時、プロメテは悲しむ。鷲が醜くなるだろうから。
 こんな謎みたいなことをふと書いてしまったのは、「紋章」の或る場面が頭に浮んだからだった。最後近く、久内が善作に呼び出されて、二人でビールを飲みながら話をする――作品の筋から云えば、全篇の結末を暗示するような話をする、あの場面である。二人は、ビヤホールの喧騒のなかで、雁金の人物評をきっかけに、正義を論じ、自由を論ずる。而も、久内は初子に対する愛情をなげすてて、妻の敦子と老父母とを守って生きてゆこうと決心してる時であり、善作は初子にぶつかってみる決心をしてる時である。そして茲では、そういう二人の心理は背後に伏せられて、正義や自由の議論が表面に浮き出して、初子を対象とする言葉もなまのまま吐き出されている。前に述べてきたような作者の「私」の濾過は破綻を見せている。恐らくこれは、創作態度としての「私」をとりのこして、作者自身の一種の批判が口を利いたのであろう。
 これはよいことか悪いことか、私には分らない。だが考えてみるに、山下久内は恐らく最も作者の身辺に近い人物であろう。作者は彼を、近代の知識人だと云っている
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