なのは、二人もしくは数人の対坐した情景である。その間の会話のやりとりや心理の交錯を、平板にも陥らず説明にも堕せずに書き現わすことは、容易でない。「紋章」ではこの困難が特殊の方法できりぬけられている。例えば、「私」が善作と初めて逢った場面、「私」と雁金と久内と敦子とが奇怪な会食をなす場面、山下博士邸の茶会の場面など、それぞれの人物性格がしっくりと描き出され、その種々の心理の微妙なもつれが鮮かな縞目を織り出している。そして茲で注意すべきは、人物のそれぞれの言葉が、文字の上では言葉として書かれているが、地の文と同じ地位を占めていることである。言葉は一度何物にか濾過されて、言葉それ自体の生命を失い、変貌して地の文の中にとけこみ、そこで新たな生命を獲得する。そしてそこに微妙な心理交錯の縞目を織り出す。
 然るにこれが他の場面、例えば、久内と初子とが最後に(小説の中での)食事をするところや、久内が家を出て暮そうとの決心を妻の敦子にうちあけるところなどになると、濾過された言葉が死んで、地の文の中でさえ力を失ってくる。その刻々の情意の昂揚や変動に、言葉が――そして地の文までが、追っついていけないで、後方に取残される。人間の言葉は不用意に発せられるもので、殊に情意の変動時に当っては、その爆発や沈潜からじかに湧き上ってくるものであるが、そうした言葉を何かで濾過する時には、それはもう情意の動きについていけない。
「紋章」のなかで、言葉を濾過してるものは何か。それを私は前述し来った「私」だと見る。この「私」は、常に人物の跡をつけて、その刻々の心理の状態を捉えようとする。心理は刻々に動いてゆくが、捉えようとするのは、その刻々の状態である。そういう「私」によって濾過された言葉は、地の文の中にとけこんで、平常の場合には特殊の力と生命とを持つが、変動しつつある場合には、心理の動きから一歩後れるのは仕方ないことであろう。
 現実のいずれの相が真実でありいずれの相が虚偽であるか、そういうことを信じようと信じまいと、または、それの見分けがつこうとつくまいと、芸術のなかに現実を或は再現し或は飜訳し或は建立する場合、作家はただ自分の真実に頼るより外はない。そしてこの真実は、その動向の如何によって、作家に種々の態度を取らせる。「紋章」の作者は、そこで、「私」というものを得た。人間の心理に於ては、一つのものは一
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