ヱヱあの房雄が」奥方涙ぐみつゝ「ハイ房雄です、此青柳家の家督となる房雄で御座います……これといふのも、もとは今宮のおかげながら、一つは御前のお身持がお身持故、房雄もそんな勝手なまねをいたすので御座いませう」面目なげに「イヤさうおれにばかり食つてかかられてはこまるが、何しろ其まゝにしてはおかれんから、杉田でも早速むかひにやるがいゝよ」「それや無論でございますとも」折からお京が入りきたり、あはたゞしげに手をつかへて「あの奥様、お姫様がどちらへお出なさいましたか、お見え遊しませんよ」。
(八)
長火鉢の側に立膝して、片手には新聞を持ち、片手には烟管をもちて、しきりと煙草をくゆらせながら、今しも仕事に余念なき母親の方をぢツと見て「おツ母さん、露はどこへ行ツたの」ひからびついたやうな声にて「お湯へ行たよ」「大変長いね」「さ様さ」「もう何だよ、そろ/\いぢめて泣かせるがいゝよ」「オヤ大変薄情な事をお言ひだね、自分が勝手に引ずりこんだくせに」「わからないねヱおツ母さん、最初子爵と懇意になつた時分、あの老公の気にいらなくツて、あやふくお払箱になるところを、あいつ老公の妾のくせに、私に心をよせて、自分の兄だといツたもんだから、ぢいさん忽ちのろくなツて、それなりけりになツたんだよ、其おかげであの馬鹿殿を胡麻化して、よツぽど借金のかたをつけたんだアね……だがあすこの奥方は中々悧口だよ、私と露との事を見あらはして、とう/\二人ともおはらひ箱さ……でも私も少し義理があるもんだから、仕方なしにこツそり家にいれたのよ、けれどもおかげで大事の名誉はめちや/\になツたし……それにもう何もかも大抵とり上げたから、此上猶家におけば、只損になるばかりだよ、だからおツ母さん、お前気をきかして、もうそろ/\いぢめておやりよ」残酷きはまる言の葉を、平気の平左で花のやうな愛らしい口から吐出すおそろしさ、母はつく/″\きゝゐしが「なる程きけばそれもさうさね、だが[#「だが」は底本では「だか」]お前、此頃のやうに仕事がなくツては、実にこまるね、東西新聞もふみ倒されてるし、露はお払箱にきめたところで……大きな方はかたづいたが、まだはしたがねが残つてゐて、うるさく催促されるもの、其あとはどうするへ」「なに心配するにおよばないよ、私にはまたいろ/\の手があるから」「さうかへ、ならいゝが」といひつゝ我子をぢツと見て「ほんとにお前の器量なら、女のさわぐのも無理はないよ」「なんだねくだらない事を……それよりかきツとうまくいぢめなければいけないよ」「あいよ承知だよ」折から格子をがら/\あけて、お露は今しもみがきたてゝかへりきたるを、見るより母は目に角たて、我子に一寸目をくばせし、手なみを見よといひ顔に「大変長かツたね、此忙しいのに何をぐづ/\してるんだへ、まいにち/\化粧三昧に大事の時間を費して、女郎芸者ぢやあるまいし、見ツともない、着物をずる/\引ずつて……」いつもとても意地わるけれど、今日はあまりのするどさに、お露は殆ど縮みあがり、小さくなりておそる/\「おツ母さん、かんにんしててうだい、つひお向のみいちやんと御一所になツたもんですから」とがり声にて「また俳優の噂にでも夢中になツてゐたんだろう、馬鹿々々しい……オヤ/\大変美しくおつくりができましたね、丸で粉なやの盗《どろぼう》のやうですよ、オホ……オヤこのこは泣くよ、何が悲しいんだへ、……しかし思へば尤だよ、こんな働のないものを亭主に持て、ろくに物見遊山もできず、おまけに私のやうな、皺くちや老婆の世話までするかとおもツたらさぞなさけなくなるだろうよ、ねヱお前、露は泣く程こゝのうちが否なんだから、男らしく未練をいはずに、ひまをおやりよ」此時までもお露の方を見むきもせず、新聞よみゐし放蕩山人、やうやくこちらに頭をまげ無造作に「なに否ならいつでも出ておいでよ、お前の方では未練があツても、おれの方にはすこしもないから、ちツとも御遠慮には及ばないよ、ハイ女に不自由しませんから」と、言ひつゝ一寸時計を見て「おツ母さん、今日人と約束した事があるから出てくるよ、着物を出しとくれな」「アア」「早くさ、おそくなるといけないから」いはれてやう/\立ながら「なる丈早くかへるんだよ」「早くはかへられないよ」「オヤなぜ」「なぜでも訳はあとで話すよ、いくらおそくとも又二三日かへらなくとも、案じずにゐておくれ、それから着物はあの縞縮緬にしとくれ」「アア」といひつつ母親は奥に行。今まで泣伏してゐたお露はむくりとおきあがり、いきなり今宮にとりついて「あなた今のはほんとうツ」情けなくもいきなり其手をふり払つて「お気の毒だがほんとだよ」
(九)
こゝは下谷の池の端、名もなまめかしき後朝《きぬぎぬ》といふ待合の奥二階、此あついのにしめ切つて、人目を忍ぶ男女の客、いはずとしれし恋の曲者、女は男の絽の羽織をぬがせて袖だゝみにしながら、何がうれしいかにツこり笑ふ。男も只訳もなしににつこりしながら「しかし今日はよく出られましたね」愛らしきこゑにて「そりやアあなた一生懸命ですもの」煙草をのみながら「随分むずかしかツたでせう」「ハイやツとの事でまゐりましたの」「さうでせうね、しかし私も母にうたぐられてよわりましたよ」「マアどうも何とかお怒り遊して」「イヽヱ別に怒りもしませんでしたが……ナニもうこゝまでくれば大丈夫です」「そんならよう御座いますが、しかしどなたかあとをつけて入ツしやらないでせうか」「なに御心配にはおよびません、たとひつけたにしろ、此商売ですもの、うつかり二人のゐる事をあかす気づかひはありませんよ」「さうでせうかね」「さうですとも……それはともかく、あなたほんとにお家はいゝんですか、それが一番心配ですね、何しろおツ母様にはひどく私もいはれてますからね」かなしげにしほれて「どうして母はあんなに情ないでせうね……だがあなた御心配遊すな、今日のところは大丈夫ですからと[#「ですからと」は底本では「でにすからと」]、いひつゝふところからふくさ包をとりいだして「ほらお金もね、二百円程持てまゐりましたの」二百円ときいてそゞろうれしく、「さうですか、そりやいゝ都合でした……しかし妙ですね、考へると此春お庭で始めてお手紙を下さツた時よりの事をおもふと、実に夢のやうですね、あなたとこんなにならふとは」といひつゝ爪紅艶なる其手をとツて引よせれば、女ははづかしさうによりそひながら、膝にもたれて、下より男の顔をそツと見あげ、小さなこゑにて「あなた、あの時はなぜあんなにつれなくなさツたの……」其背中をなでながら「イヤ決してつれなくしたい心は少しもなかツたんですが、あの時分は春山の若殿が(糸子の結髪)おかくれになツて間もない折ではあり、又考へれば行末とてもとげがたい恋だと思ひましたから、あとで物思ひをするよりは、と思つてそれで私はあなたにもまさるくるしい恋を忍んでゐたのですよ」「うそ仰り遊せ、春山なんてまアいやな……あなたは屹度私みたやうな野暮なものより露のやうな意気な女がお好だからでしたらう」「何の向はともかく私においてはあなたのお父様のお召使をかう言ては何ですが、あんなはしたない下品な女はきらひですよ」うれしさうに「でもどうだか」「まだそんな事を、うそならどうします」「かうします」「おやいたい、ひどい指の力ですね、こんな細い白魚のやうな手々には合ひませんね」「いやですよひやかして……」「フ……怒たの……それはともかくあなたほんとにいらツしやるおつもり」「アラ何でうそを……ぜひつれてツててうだいよ、どうせかうして家を出てきた上は、たとひどんなかんなんをしても、あなたのお側に居る事ができるなら、それでいゝと思ツてる位ですものを、まして今度は見た事もない所へつれてツて下さるのですもの、私はどんなにうれしいかしれませんよ」「ほんと、ぢや今夜のうちに大宮まで行きませう」おどろいて「これからですか」「ハアなに時間は大丈夫です……ね、さうすれば、むかうに行ツてからがゆツくりしていゝでせう、そして上野から汽車にのるにも、昼より人目がなくツて、どんなにいゝかしれませんよ」「あなたと御一所なら私はどうでもよう御座いますが、しかしあなたのおツ母様へはどう遊すの」「なに母には向に行ツてから手紙をよこした方がいゝです……あなたと夫婦にしてくれるならかへる、でなければかへらないとね、いゝでせう」「ほんと、まアうれしい事」「ほんとですとも」とにツこり笑ツて、女の絹のやうな頬に、自分の櫻色の頬をくツつけて「決してお世辞でも何でもない、ほんとうの事をいふんですがね、私はこれまで真に女を思た事はありませんが、あなたにはどうしてこんなに迷ツたか、実に自分ながら不思議ですよ」女はいとゞうれしげに「たとひうそでも其お言葉は忘れません」「うそかまことか今に屹度しれますよ……お兄様も今頃は熱海へおつきでせうが、うらやましいのね」「これからやツぱり御一所にいきますもの、兄をうらやむには及びませんわ、それともあなたはまだ尾彦の花越とかを思ツていらツしやるの」「何の馬鹿な……そんなくだらない事はもういひツこなしさ、早く仕度をなさいよ」。
(十)
はれて妹背となる日をば、むなしくこゝに松島の観月楼上、三階の端いと近く立いでゝ、糸子は四方をながめながら「ほんとにどうもいゝ景色ですね、これにまさるところは日本にはありますまいね」寝ころんで居た今宮もおきてきて、糸子の肩に手をかけて「いゝのなんのツて丸で絵のやうですね」「あの向にみえるのは何といふ島ですか」「あれですか、あれは雄島です」「あの島は」「大黒島」「其側のは」「布袋島」「オホヽ……七福神の名みたやうですね……オヤ今日は大変船がみえますね」「あれは皆漁夫の船ですよ」「マア大変面白さうですね」「なに家業となつたら別に面白くもないでせうよ、我々小説家なんぞの道楽商売でさへ、随分つらい事が多いんですもの」「オヤあなたもつらい事があるの」「ありますとも」「どんな事」「どんな事ツて、さうとりとめた事でもないんですが、はたから見たやうに気楽なものではありませんよ」「そりやアやツぱりさうでせうね」何かしばし考へて「それはともかく、しかし今日の母の手紙の様子では、余程ひどくおうちの方からおかけ合があツたものと見えますね」「さうですね」と心配な顔色、今宮は溜息をつきながら「それで母も妹と二人きりで、非常にこまるから、どうか帰ツてくれろツて、怒る所か頼むやうな手紙ですもの、私の母は無論ゆるしてくれませうが、只おぼつかないのはあなたの御両親ですね」糸子はしほれながら「私は両親がゆるしてくれないなら、それで、よう御座いますから人には何と言はれたつてかまひません、只あなたのお側にさへ居られるなら、どうでもいゝと思ひますよ、ですからおかへり遊すのがお否なら、いツその事あなたのおツ母様と、花子様とをこゝにおむかへなさツたらいゝぢやありませんか」「それは何訳もないんですが、しかし私の家業は都でなくツてはできない事ですもの」「なる程さうでしたツけね」「それにくる時、日光や、飯坂なんぞであんまり遊んだもんですから、もうお金もそんなにありませんし、実にこまるんです」「そうですか、どうしませうね」折から此家の女中きたりて、茶代の効能むなしからず、東京にては借家住居の今宮を、衣服の綺羅と顔立の上品になるに胡麻化されて、下へもおかぬ花族あつかひ、障子の外に手をついて「御前、只今新聞がまゐりましたから……それから何ぞ御用は御座いませんか」今宮は物うげに「アアマア何もないよ」「さ様で御座いますか……今日はいゝ塩梅に風が御座いませんでよろしう御座います、ちと瑞巖寺へでもいらツしやいませんか」「先にも見たから……しかし中々立派だね」「さ様で御座いますツてね、私どもはまだ一度も見た事御座いませんもの……」「オヤ姉さんこゝぢやないの」「ヘヱ王子なんで御座いますが、こんな所へまゐツて居りますので」「さうかへそりやマアさぞ故郷が恋しいだろうね、晩にひまになツたら遊びにおいで」「ヘヱありがたう御座います」と会釈
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