して出でゆく。今宮又もねころびて、煙草盆を枕にしながら、今しも女がもてきたりし東京新聞をよみそめしが、稍ありて顔色かへてむくりとばかりおき上り、何かしきりに考へゐる糸子にむかひ「糸子さん、もう駄目ですこ……これを御らんなさい」いはれて新聞手にとり上げ「どんな事が御座いますの」「これ、こゝを御らんなさい」さゝれしところに目を下せば、あはれ悲しやみだしもつらき文学者の大堕落、はツとばかりにおどろきながら、胸とゞろかせてよみ終り、おもはず新聞とりおとしぬ。
× × ×
才にまかせて世をも人をもあざむきつゝおもしろおかしく今日まではどうやらかうやら送りきしが、お露をつまとせし頃より、名誉はすでに地におちて、書肆には体よく遠ざけられ、朋友よりは絶交され、親族よりは義絶されて、社会の信用失ひし上、日々借金取にあたらるゝ苦しさ、糸子の恋慕を幸に、こゝに姿をかくせしも、うか/\するうちふところも大方さびしくなりしのみか、流石薄情残酷なる心にも、世にたぐひなき糸子の姿と、其赤心にほだされて、始は当座の花心、口さきのみでたらせしが、いつのまにやら今は心からいとしくなり、我と我身を疑ふまで、千代も八千代も末かけて、はなれともなき恋しさに、何とかなして表むき夫婦にならるゝすべもやと、いろ/\思ひをくだきしが、我がこしかたをかへりみれば、糸子の両親こゝろよく、承諾すべき訳もなし、さりとていつまで此ところに、月日をおくりてゐられもせず、早や此上は全く路用のつきぬうち、ともかくみやこにかへり上、何とか工風をせんものと、稍決心せし折も折、またもや糸子との浮名を新紙にうたはれて、今はかへるにもかへられず、いかに面皮が厚しとて、ふたゝび人に顔見らるゝに忍びねば、いかゞはせんと思ひしが、思へば思ふ程世の中が否になり、善悪邪正無差別の、こんなつまらぬ娑婆世界、いつまでゐるもおなじ事、いツそ浮世をよそに見て、静けきさとにねぶりなば、いかに心も安からんと、我にもあらずぬけいでて、足にまかせて歩みしが、松吹く風の肌さむきに、ふと心づきてあたりを見れば、岩根を洗ふさゞなみの音は女の泣く如く、松の雫か夜露か雨か、おのが涙か長からぬ、袖もしめりて物がなしく、沖のいざり火影かすかに、月もおぼろにくもれるは、我身のはてをとふにやと、思へばいとゞはかなさに、かへらぬ事を思ひで、おかしゝ罪をくゆる折、いづこともなくとめきの香り、こはいぶかしと思ふまもなく、我にすがりしものあるにぞ、たぞやとばかり驚けば、おもひもよらぬ糸子なり。よもしるまじと思ひしに、どうしてあとを慕ひしかと、しばし無言にながむるを、糸子は涙のこゑ細く「あなた……あなたはマア何といふ情ない方でせう、私をねかして夜夜中こんな所にいらツしやるとは……マアあなたこゝはどこだとお思ひなさいますの」いはれて今宮心づき、そもやいづこと見まはせば、今まで目には入らざりしが、いともふりたる社のさま、月にすかしてながむれば、文字もかすかに五大堂、なる程おもへばあの気味わるき、琴柱の橋を渡りし覚はあるやうなり。さりとては序あしゝと、心のうちにおもひながら「どこでもない五大堂です、あんまり月がおもしろかつたものですから、つひぬけ出してきたんです。決してあなたをおきざりにしたなんて訳ぢやないから、まうそんなにお泣なさるな、ね、もう泣かないでさ」いへばます/\むせび入りて「うそ……うそ仰り遊せ、あなたはこ……こんなにおかきおきまで残しなさツていらしつたのですもの、もうお心はしれておりますよ……なる程あんなにかゝれては、しかも事実であツて見ればさう思召すも御尤です、だから私もおとめ申はいたしません……そ……其かはり私もどうか御一所に死なせて下さいましツ」泣いて我手にすがられて、今宮殆ど当惑せしが、屹度思ひついて「イヤ其お心は忘れません、しかし糸子さん、あなた私のかきおき御すらんなさツたの」「拝見いたしましたとも」「そんならよオく聞きわけて、私一人死なせて下さい」糸子は涙の声ふるはせ「あなた今更そんな事を仰るのは、私をおいとひ遊すからでせう、考へても御覧遊せ、あんなにひどくかかれては、たとひどうでも私も生きて両親に顔向はできません……だからあなたがたつて一所に死ぬのは否だと仰るなら、私は一人で死にますから」と言ひつゝつと身をおこして、崖の方にはせいだすを、あはてて今宮引とめて、これまでなりと決心し「そんなら御一所に死ませう」「ほんとうですか」「ほんとですとも」「オヽうれしい」とよろこぶあはれさ、思へば夢にもおとりたる、痴情のはかなさを、うき世の人はそしるとも、迷ひにまよひし今宮は、いかにうれしとおもひしならん。おりからさツと潮風に、雲はらはれて月影も、ふたゝびくまなくてらすにぞ、手に手をとツて稍暫時、顔と顔とを見合せて、これが此世の名残かと、言葉はなくてもろともに、涙にくるゝ四の袖、吹浦島の岸による、浪も二人の身のはてを、かなしむごとき風情なり。
× × ×
其翌々日仙台東北新聞の第三ページには、てもめずらしき文学者の心中といへる、いと長々しき雑報を見るにいたれりとぞ。
底本:「田澤いなぶね作品集」無明舎出版
1996(平成8)年9月10日初版発行
底本の親本:「田澤稻舟全集 全」東北出版企画
1988年2月25日初版第1刷発行
初出:「文芸倶楽部」
1896(明治29)年11月
※「うつかり」と「うっかり」の混在は底本通りです。
入力:もりみつじゅんじ
校正:志田火路司
2002年2月4日公開
2009年9月17日修正
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