からうと、心のうちでは思ひながら、口の前では反対に「イヱさうぢやありませんよ、諺にも歌人はゐながら名所をしるといひますから、ましてあなたのやうな才子の方には決して経験の有無にはよりません」頭をかきながら「あなたはさうかもしれませんが、私のやうなものが経験のない事をかこうと思つても、とても想像ばかりぢやかゝれません、実にこれにはよはみです」「フフフフそんな事はありますまい、世の中の事は大抵想像通りの物ですよ」何か急に思ひ出したやうに、時計を見ながら「ぢや何ですが、もしおさしつかへがないなら、これから大に人情研究に、適当の場所へおともいたしませうかウフ……」下地は好なり御意はよし、これまでとても満更おぼえのなきにもあらねば、房雄も内心大によろこび「アハハハさうですね、いゝでせう、お供しませうもう、何時です」「七時半ですから丁度いゝです」「ぢや一寸着かへてまゐりますから、失礼ですが」と目礼して、奥にいりぬ。
 あとに山人うまい/\とひとり笑しながら、膳の上を見まはせしが、肴はあらして残骨いとゞなまぐさく、徳利をふりこゝろみれば、音もなきに失望して、煙草ばかりくゆらせしが、若殿おめかしにひまど
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