の名みたやうですね……オヤ今日は大変船がみえますね」「あれは皆漁夫の船ですよ」「マア大変面白さうですね」「なに家業となつたら別に面白くもないでせうよ、我々小説家なんぞの道楽商売でさへ、随分つらい事が多いんですもの」「オヤあなたもつらい事があるの」「ありますとも」「どんな事」「どんな事ツて、さうとりとめた事でもないんですが、はたから見たやうに気楽なものではありませんよ」「そりやアやツぱりさうでせうね」何かしばし考へて「それはともかく、しかし今日の母の手紙の様子では、余程ひどくおうちの方からおかけ合があツたものと見えますね」「さうですね」と心配な顔色、今宮は溜息をつきながら「それで母も妹と二人きりで、非常にこまるから、どうか帰ツてくれろツて、怒る所か頼むやうな手紙ですもの、私の母は無論ゆるしてくれませうが、只おぼつかないのはあなたの御両親ですね」糸子はしほれながら「私は両親がゆるしてくれないなら、それで、よう御座いますから人には何と言はれたつてかまひません、只あなたのお側にさへ居られるなら、どうでもいゝと思ひますよ、ですからおかへり遊すのがお否なら、いツその事あなたのおツ母様と、花子様とをこゝにおむかへなさツたらいゝぢやありませんか」「それは何訳もないんですが、しかし私の家業は都でなくツてはできない事ですもの」「なる程さうでしたツけね」「それにくる時、日光や、飯坂なんぞであんまり遊んだもんですから、もうお金もそんなにありませんし、実にこまるんです」「そうですか、どうしませうね」折から此家の女中きたりて、茶代の効能むなしからず、東京にては借家住居の今宮を、衣服の綺羅と顔立の上品になるに胡麻化されて、下へもおかぬ花族あつかひ、障子の外に手をついて「御前、只今新聞がまゐりましたから……それから何ぞ御用は御座いませんか」今宮は物うげに「アアマア何もないよ」「さ様で御座いますか……今日はいゝ塩梅に風が御座いませんでよろしう御座います、ちと瑞巖寺へでもいらツしやいませんか」「先にも見たから……しかし中々立派だね」「さ様で御座いますツてね、私どもはまだ一度も見た事御座いませんもの……」「オヤ姉さんこゝぢやないの」「ヘヱ王子なんで御座いますが、こんな所へまゐツて居りますので」「さうかへそりやマアさぞ故郷が恋しいだろうね、晩にひまになツたら遊びにおいで」「ヘヱありがたう御座います」と会釈して出でゆく。今宮又もねころびて、煙草盆を枕にしながら、今しも女がもてきたりし東京新聞をよみそめしが、稍ありて顔色かへてむくりとばかりおき上り、何かしきりに考へゐる糸子にむかひ「糸子さん、もう駄目ですこ……これを御らんなさい」いはれて新聞手にとり上げ「どんな事が御座いますの」「これ、こゝを御らんなさい」さゝれしところに目を下せば、あはれ悲しやみだしもつらき文学者の大堕落、はツとばかりにおどろきながら、胸とゞろかせてよみ終り、おもはず新聞とりおとしぬ。
× × ×
才にまかせて世をも人をもあざむきつゝおもしろおかしく今日まではどうやらかうやら送りきしが、お露をつまとせし頃より、名誉はすでに地におちて、書肆には体よく遠ざけられ、朋友よりは絶交され、親族よりは義絶されて、社会の信用失ひし上、日々借金取にあたらるゝ苦しさ、糸子の恋慕を幸に、こゝに姿をかくせしも、うか/\するうちふところも大方さびしくなりしのみか、流石薄情残酷なる心にも、世にたぐひなき糸子の姿と、其赤心にほだされて、始は当座の花心、口さきのみでたらせしが、いつのまにやら今は心からいとしくなり、我と我身を疑ふまで、千代も八千代も末かけて、はなれともなき恋しさに、何とかなして表むき夫婦にならるゝすべもやと、いろ/\思ひをくだきしが、我がこしかたをかへりみれば、糸子の両親こゝろよく、承諾すべき訳もなし、さりとていつまで此ところに、月日をおくりてゐられもせず、早や此上は全く路用のつきぬうち、ともかくみやこにかへり上、何とか工風をせんものと、稍決心せし折も折、またもや糸子との浮名を新紙にうたはれて、今はかへるにもかへられず、いかに面皮が厚しとて、ふたゝび人に顔見らるゝに忍びねば、いかゞはせんと思ひしが、思へば思ふ程世の中が否になり、善悪邪正無差別の、こんなつまらぬ娑婆世界、いつまでゐるもおなじ事、いツそ浮世をよそに見て、静けきさとにねぶりなば、いかに心も安からんと、我にもあらずぬけいでて、足にまかせて歩みしが、松吹く風の肌さむきに、ふと心づきてあたりを見れば、岩根を洗ふさゞなみの音は女の泣く如く、松の雫か夜露か雨か、おのが涙か長からぬ、袖もしめりて物がなしく、沖のいざり火影かすかに、月もおぼろにくもれるは、我身のはてをとふにやと、思へばいとゞはかなさに、かへらぬ事を思ひで、おか
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