しゝ罪をくゆる折、いづこともなくとめきの香り、こはいぶかしと思ふまもなく、我にすがりしものあるにぞ、たぞやとばかり驚けば、おもひもよらぬ糸子なり。よもしるまじと思ひしに、どうしてあとを慕ひしかと、しばし無言にながむるを、糸子は涙のこゑ細く「あなた……あなたはマア何といふ情ない方でせう、私をねかして夜夜中こんな所にいらツしやるとは……マアあなたこゝはどこだとお思ひなさいますの」いはれて今宮心づき、そもやいづこと見まはせば、今まで目には入らざりしが、いともふりたる社のさま、月にすかしてながむれば、文字もかすかに五大堂、なる程おもへばあの気味わるき、琴柱の橋を渡りし覚はあるやうなり。さりとては序あしゝと、心のうちにおもひながら「どこでもない五大堂です、あんまり月がおもしろかつたものですから、つひぬけ出してきたんです。決してあなたをおきざりにしたなんて訳ぢやないから、まうそんなにお泣なさるな、ね、もう泣かないでさ」いへばます/\むせび入りて「うそ……うそ仰り遊せ、あなたはこ……こんなにおかきおきまで残しなさツていらしつたのですもの、もうお心はしれておりますよ……なる程あんなにかゝれては、しかも事実であツて見ればさう思召すも御尤です、だから私もおとめ申はいたしません……そ……其かはり私もどうか御一所に死なせて下さいましツ」泣いて我手にすがられて、今宮殆ど当惑せしが、屹度思ひついて「イヤ其お心は忘れません、しかし糸子さん、あなた私のかきおき御すらんなさツたの」「拝見いたしましたとも」「そんならよオく聞きわけて、私一人死なせて下さい」糸子は涙の声ふるはせ「あなた今更そんな事を仰るのは、私をおいとひ遊すからでせう、考へても御覧遊せ、あんなにひどくかかれては、たとひどうでも私も生きて両親に顔向はできません……だからあなたがたつて一所に死ぬのは否だと仰るなら、私は一人で死にますから」と言ひつゝつと身をおこして、崖の方にはせいだすを、あはてて今宮引とめて、これまでなりと決心し「そんなら御一所に死ませう」「ほんとうですか」「ほんとですとも」「オヽうれしい」とよろこぶあはれさ、思へば夢にもおとりたる、痴情のはかなさを、うき世の人はそしるとも、迷ひにまよひし今宮は、いかにうれしとおもひしならん。おりからさツと潮風に、雲はらはれて月影も、ふたゝびくまなくてらすにぞ、手に手をとツて稍暫時、顔と顔とを見合せて、これが此世の名残かと、言葉はなくてもろともに、涙にくるゝ四の袖、吹浦島の岸による、浪も二人の身のはてを、かなしむごとき風情なり。
    ×         ×         ×
 其翌々日仙台東北新聞の第三ページには、てもめずらしき文学者の心中といへる、いと長々しき雑報を見るにいたれりとぞ。



底本:「田澤いなぶね作品集」無明舎出版
   1996(平成8)年9月10日初版発行
底本の親本:「田澤稻舟全集 全」東北出版企画
   1988年2月25日初版第1刷発行
初出:「文芸倶楽部」
   1896(明治29)年11月
※「うつかり」と「うっかり」の混在は底本通りです。
入力:もりみつじゅんじ
校正:志田火路司
2002年2月4日公開
2009年9月17日修正
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