女の客、いはずとしれし恋の曲者、女は男の絽の羽織をぬがせて袖だゝみにしながら、何がうれしいかにツこり笑ふ。男も只訳もなしににつこりしながら「しかし今日はよく出られましたね」愛らしきこゑにて「そりやアあなた一生懸命ですもの」煙草をのみながら「随分むずかしかツたでせう」「ハイやツとの事でまゐりましたの」「さうでせうね、しかし私も母にうたぐられてよわりましたよ」「マアどうも何とかお怒り遊して」「イヽヱ別に怒りもしませんでしたが……ナニもうこゝまでくれば大丈夫です」「そんならよう御座いますが、しかしどなたかあとをつけて入ツしやらないでせうか」「なに御心配にはおよびません、たとひつけたにしろ、此商売ですもの、うつかり二人のゐる事をあかす気づかひはありませんよ」「さうでせうかね」「さうですとも……それはともかく、あなたほんとにお家はいゝんですか、それが一番心配ですね、何しろおツ母様にはひどく私もいはれてますからね」かなしげにしほれて「どうして母はあんなに情ないでせうね……だがあなた御心配遊すな、今日のところは大丈夫ですからと[#「ですからと」は底本では「でにすからと」]、いひつゝふところからふくさ包をとりいだして「ほらお金もね、二百円程持てまゐりましたの」二百円ときいてそゞろうれしく、「さうですか、そりやいゝ都合でした……しかし妙ですね、考へると此春お庭で始めてお手紙を下さツた時よりの事をおもふと、実に夢のやうですね、あなたとこんなにならふとは」といひつゝ爪紅艶なる其手をとツて引よせれば、女ははづかしさうによりそひながら、膝にもたれて、下より男の顔をそツと見あげ、小さなこゑにて「あなた、あの時はなぜあんなにつれなくなさツたの……」其背中をなでながら「イヤ決してつれなくしたい心は少しもなかツたんですが、あの時分は春山の若殿が(糸子の結髪)おかくれになツて間もない折ではあり、又考へれば行末とてもとげがたい恋だと思ひましたから、あとで物思ひをするよりは、と思つてそれで私はあなたにもまさるくるしい恋を忍んでゐたのですよ」「うそ仰り遊せ、春山なんてまアいやな……あなたは屹度私みたやうな野暮なものより露のやうな意気な女がお好だからでしたらう」「何の向はともかく私においてはあなたのお父様のお召使をかう言ては何ですが、あんなはしたない下品な女はきらひですよ」うれしさうに「でもどうだか」「まだそんな事を、うそならどうします」「かうします」「おやいたい、ひどい指の力ですね、こんな細い白魚のやうな手々には合ひませんね」「いやですよひやかして……」「フ……怒たの……それはともかくあなたほんとにいらツしやるおつもり」「アラ何でうそを……ぜひつれてツててうだいよ、どうせかうして家を出てきた上は、たとひどんなかんなんをしても、あなたのお側に居る事ができるなら、それでいゝと思ツてる位ですものを、まして今度は見た事もない所へつれてツて下さるのですもの、私はどんなにうれしいかしれませんよ」「ほんと、ぢや今夜のうちに大宮まで行きませう」おどろいて「これからですか」「ハアなに時間は大丈夫です……ね、さうすれば、むかうに行ツてからがゆツくりしていゝでせう、そして上野から汽車にのるにも、昼より人目がなくツて、どんなにいゝかしれませんよ」「あなたと御一所なら私はどうでもよう御座いますが、しかしあなたのおツ母様へはどう遊すの」「なに母には向に行ツてから手紙をよこした方がいゝです……あなたと夫婦にしてくれるならかへる、でなければかへらないとね、いゝでせう」「ほんと、まアうれしい事」「ほんとですとも」とにツこり笑ツて、女の絹のやうな頬に、自分の櫻色の頬をくツつけて「決してお世辞でも何でもない、ほんとうの事をいふんですがね、私はこれまで真に女を思た事はありませんが、あなたにはどうしてこんなに迷ツたか、実に自分ながら不思議ですよ」女はいとゞうれしげに「たとひうそでも其お言葉は忘れません」「うそかまことか今に屹度しれますよ……お兄様も今頃は熱海へおつきでせうが、うらやましいのね」「これからやツぱり御一所にいきますもの、兄をうらやむには及びませんわ、それともあなたはまだ尾彦の花越とかを思ツていらツしやるの」「何の馬鹿な……そんなくだらない事はもういひツこなしさ、早く仕度をなさいよ」。
(十)
はれて妹背となる日をば、むなしくこゝに松島の観月楼上、三階の端いと近く立いでゝ、糸子は四方をながめながら「ほんとにどうもいゝ景色ですね、これにまさるところは日本にはありますまいね」寝ころんで居た今宮もおきてきて、糸子の肩に手をかけて「いゝのなんのツて丸で絵のやうですね」「あの向にみえるのは何といふ島ですか」「あれですか、あれは雄島です」「あの島は」「大黒島」「其側のは」「布袋島」「オホヽ……七福神
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