からうと、心のうちでは思ひながら、口の前では反対に「イヱさうぢやありませんよ、諺にも歌人はゐながら名所をしるといひますから、ましてあなたのやうな才子の方には決して経験の有無にはよりません」頭をかきながら「あなたはさうかもしれませんが、私のやうなものが経験のない事をかこうと思つても、とても想像ばかりぢやかゝれません、実にこれにはよはみです」「フフフフそんな事はありますまい、世の中の事は大抵想像通りの物ですよ」何か急に思ひ出したやうに、時計を見ながら「ぢや何ですが、もしおさしつかへがないなら、これから大に人情研究に、適当の場所へおともいたしませうかウフ……」下地は好なり御意はよし、これまでとても満更おぼえのなきにもあらねば、房雄も内心大によろこび「アハハハさうですね、いゝでせう、お供しませうもう、何時です」「七時半ですから丁度いゝです」「ぢや一寸着かへてまゐりますから、失礼ですが」と目礼して、奥にいりぬ。
あとに山人うまい/\とひとり笑しながら、膳の上を見まはせしが、肴はあらして残骨いとゞなまぐさく、徳利をふりこゝろみれば、音もなきに失望して、煙草ばかりくゆらせしが、若殿おめかしにひまどりて、中々急にいできたらず、あまりの長きに退屈して、つと立ち上がりて、庭下駄引かけほろ酔に櫻色となりし美顔を風になぶらせながら、築山のうしろ泉水のまはりなど、そゞろありきしつゝ、流石やさしき文人とて、折にあひたる古歌などひくゝ口すさみ、我にもあらで立ずみし袂にさはりしものあるにぞ、何かとばかりおどろき見れば、いづこより投ぜしか、簪に結びし玉章一通足もとに落ちりてひろひあぐるを待ゐる風情、これ初恋の面影と、しるやしらずや月さへも、まよひの雲につゝまれて、ひかりもいとゞうすれゆく、艶にゆかしき夕なり。
(四)
芸者は一二度よびたる事もあれど、かゝるところは始めてなれば、何やらきまりわるさうな房雄の様子に、放蕩山人さては気に入らなくつてかうだのかと、内心すこしくしよげながら、しきりと機嫌をとる折りから、此家のお神お茶道具を持きたりて、例のあいそよきにこ/\顔にて「旦那今夜はどちらへ」といはれて山人頭をかき、房雄の顔を一寸見て「さ様さね……あなたどこにしませうね」房雄はいとゞきまりわるげに「どこつて、どこでも[#「どこでも」は底本では「とこでも」]いゝです」お神はホゝと笑ひながら「
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