うに、海のほうに向けて据えてある空いたベンチのところまで歩いて行った。ほんの二十歩ばかり歩いただけなのに、もう疲れてしまったらしい、喘ぐような息遣いをしながら、そのベンチに腰を下ろした。蒼ざめた顔はこの世のひとの顔とも思われない。そして頻りに咳をした。彼女はそのたびに、自分の精根を涸らしてしまう、込み上げて来るその動揺をおさえようとするためなのであろう。透き通るような白い指をその脣《くち》に押しあてた。
 彼女は燕《つばめ》が幾羽となく飛び交っている、目映いばかりに照りはえた青空を見上げたり、遠くエストゥレル山塊の気まぐれな峯の姿を眺めたり、また近く足もとに寄せて来る静かな海の綺麗な紺碧の水にじッと視入ったりしていた。
 やがて彼女はまたしてもにっこり笑った。そして呟くように云った。
「ああ! あたしは何て仕合わせなんだろう」
 けれども彼女は、遠からず自分が死んでゆく身であることを知らぬではなく、二度と再び春にめぐり遇えると思っているのでもなかった。一年たった来年の今頃ともなれば、自分の前をいま歩いてゆく同じ人たちが、南国のあたたかい空気を慕って、今よりは少しばかり大きくなった子供を連れて、希望にもえ、愛情に酔い、幸福にひたった心を抱いて、再びこの地を訪れるであろう。しかるに自分はどうか。名ばかりながら今は生きながえらえている哀れなこの五体は、柏の柩《ひつぎ》の底に、経帳子《きょうかたびら》にしようと自分が選んでおいたあの絹衣《きもの》につつまれた白骨をとどめるのみで、あわれ果敢《はか》なく朽ちはてているであろう。
 彼女はもうこの世の人ではあるまい。世のなかの営みは、自分以外の人たちには、昨日となんの変ることもなく続くであろう。が、彼女にとってはすべてが終ってしまう。永遠に終りを告げてしまうのだ。自分はもうこの世のどこにも居なくなっているであろう。そう思うと、彼女はまたにっこり笑った。そして、蝕まれた肺のなかに、芳ばしい花園のかおりを胸一ぱい吸い込むのだった。
 そうして彼女はその思い出の糸を手繰りながら、じッと物思いに耽るのだった――。
        *     *
     *           *
        *     * 
 忘れもしない、彼女がノルマンディーの貴族と結婚させられたのは、四年前のことである。良人《おっと》というのは、鬚《ひげ》の
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