たし――あたしねえ――何だか悲しいんですの――何だか、妙に気が重いんですの――」
 しかし、そう云ってしまうと彼女は何だか怖ろしい気がしたので、周章《あわ》ててこう附け加えた。
「それに――あたし、すこし寒いんですの」
 寒いと聞くと、良人はぐッと来た。
「ああ、そうだったのか、――お前にゃ、いつまでたっても煖房のことが忘れられないんだね。だが、よく考えてみるがいい。お前はここへ来てから、いいかい、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
        *     *
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 夜になった。彼女は自分の寐間《ねま》へあがって行った。彼女のたのみ[#「たのみ」に傍点]で、夫婦の寐間は別々になっていたのである。彼女は床に就いた。寐床のなかに這入っていても、やッぱり寒くて寒くて堪らなかった。彼女は考えるのだった。
「あああ、いつまで経ってもこうなのか。いつまで経っても、死んでしまうまでこうなのか」
 そして彼女は自分の良人のことを考えた。良人《あのひと》にはどうしてあんなことが云えるのだろう。なんぼなんでもあんまり酷い――。
「お前はここへ来てから、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
 そんなら、自分が寒くて寒くて死ぬほどの思いをしていることを良人に解ってもらうには、自分は病気になって、咳をしなければいけないのだろうか。そう思うと彼女は急に腹立たしい気になった。弱い内気な人間のはげしい憤りである。
 自分は咳をしなければならないのだ。咳をすれば、良人は自分を可哀そうだと思ってくれるに違いない。そうか! そんなら咳をしてやろう。自分が咳をするのを聞いたら、なんぼなんでも、良人は医者を呼んで来ずにはいられまい。そうだ、見ているがいい、いまに思い知らしてやるから――。
 彼女は臑《すね》も足も露わのまま起ちあがった。そして、自分のこうした思い付きが我ながら子供ッぽく思われて、彼女は思わず微笑んだ。
「あたしは煖房が欲しいのだ。どうあっても据えつけさせてやる。あたしは厭ッてほど咳をしてやろう。そうすれば、良人《あのひと》だって思い切って煖房を据えつける気になるだろう」
 彼女はそこで裸も同然な姿のまま椅子のうえに腰をかけた。こうして彼女は時計が一時を打つのを待ち、更に二時が鳴るのを待った。
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