えただけで、精神的にも肉体的にも疲労を感じてしまうので、私にはこの厭わしい仕事に手をつける勇気がなかったのである。
 今夜、私は机《デスク》の前に腰をかけて抽斗を開けた。書いたものをあらまし引裂いて棄ててしまおうとして、私はむかしの文書を選《よ》り分けにかかったのだった。
 私は抽斗をあけると黄ろく色の変った紙片がうず[#「うず」に傍点]高く積みあがっているのを見て、暫時《しばし》は途方に暮れたが、やがてその中から一枚の紙片をとりあげた。
 ああ、もしも諸君が生[#「生」に傍点]に執着があるならば、断じて机に手を触れたり、昔の手紙が入っているこの墓場[#「墓場」に傍点]に指も触れてはいけない! 万が一にも、たまたまその抽斗を開けるようなことでもあったら、中にはいっている手紙を鷲づかみにして、そこに書かれた文字が一つも目に入らぬように堅く眼を閉じることだ。忘れていた、しかも見覚えのある文字が諸君を一挙にして記憶の大洋に投げ込むことのないように――。そしていつかは焼かるべきこの紙片を火の中に放り込んでしまうことだ。その紙片がすべて灰になってしまったら、更にそれを目に見えぬように粉々にしてしまうことだ。――しからざる時は、諸君は取返しのつかぬことになる、私が一時間ばかり前からにッちもさッち[#「にッちもさッち」に傍点]も足悶《あが》きがとれなくなってしまったように――。
 ああ、初めのうちに読み返した幾通かの手紙は私には何の興味もないものだった。それにその手紙は比較的新らしいもので、今でもちょいちょい会っている現に生きている人たちから来たものであった。また、そんな人間の存在は私の心をほとんど動かさないのである。が、ふと手にした一枚の封筒が私をはッとさせた。封筒の上には大きな文字で太く私の名が書かれてある。それを見ていると私の双の眼に泪《なみだ》が一ぱい涌《わ》いて来た。その手紙は私のいちばん親しかった青年時代の友から来たものだった。彼は私が大いに期待をかけていた親友だった。やさしい微笑を面に湛え[#「湛え」は底本では「堪え」]、私のほうに手をさし伸べている彼の姿があまりにまざまざと眼の前にあらわれたので、私は背中へ水でも浴びせられたようにぞうッとした。そうだ、死者はたしかに帰って来るものだ。現に私が彼の姿を見たのだからたしかである! 吾々の記憶というものは、この世界などよ
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