りも遥かに完全な世界なのだ。記憶は既に生存していないものに生命《いのち》をあたえるのだ。
 私の手はワナワナ顫《ふる》えた、眼はくもってしまった。だが私は彼がその手紙の中で語っている一部始終を読み返した。私は歔欷《むせびな》いている自分の哀れな心の中に痛い傷痕をかんじて、我知らず手足を折られでもした者のように呻《うめ》き声を放った。
 私はそこで河をひとが溯《さかのぼ》るように、自分の歩んで来た一生をこうして逆に辿って行った。私は自分がその名さえ覚えていなかったほど久しい前から忘れてしまっていた人たちのことを思い出した。その人たちの面影だけが私の心の中に生きて来た。私は母から来た手紙の中に、むかし家で使っていた雇人や私たちの住んでいた家の形や、子供のあたま[#「あたま」に傍点]について※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るような他愛もない小さな事を見出した。
 そうだ、私は突然母の旧《ふる》いおつくりを思い出したのだった。すると、母の俤《おもかげ》は母親がその時時《ときとき》の流行を逐《お》うて著《き》ていた着物や、次から次へ変えた髪飾りに応じて変った顔をして泛《うか》んで来た。特にむかし流行った枝模様のついた絹の服を著た母の姿が私の脳裡をしきりに往ったり来たりした。と、私はある日母がその服を著て、「ロベエルや、よござんすか、体躯《からだ》をまッすぐにしてないと猫背になってしまって、一生なおりませんよ」と、私に云っていたその言葉を思い出した。
 また、別な抽斗をいきなり開けると、私は恋の思い出にばッたりぶつかった。舞踏靴、破れたハンカチーフ、靴下どめ、髪の毛、干からびた花、――そんなものが急に思い出された。すると私の生涯の懐かしい幾つかの小説[#「小説」に傍点]が私をいつ果てるとも知れぬものの云いようのない憂愁の中に沈めてしまった。この小説中の女主人公たちは今でも生きていて、もう髪は真ッ白になっている。おお、金色の髪の毛が縮れている若々しい額、やさしく撫でる手、物云う眼、皷動《こどう》する心臓、唇を約束する微笑、抱愛《ほうあい》を約束する唇!――そして最初の接吻、思わず眼を閉じさせる、あのいつ終るとも見えぬながいながい接吻、あの接吻こそやがて女のすべてを我が物にする、限りない幸福に一切のものを忘れさしてしまうのだ。
 こうした遠く過ぎ去った旧い愛の文《ふみ》を
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