撞球室の七人
橋本五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)撞《つ》いて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大型|蟇口《がまぐち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+它」、第3水準1−14−88]
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……別の一台の方では、四人の人間が大声に笑いながら、賑かに三人上りの球を撞《つ》いていた。私の方は三人。前回に惜しい負をした私は休んで、もう五回から撞き続けている憎々しい眉間《みけん》に大きな黒子《ほくろ》のあるもじりの男と、それから新しい相手の、どこか南洋へでも行っていたらしい色のくろい男との勝負を見守っていた。そして、新しい相手がどうかしたはずみにチョークを取り落して、それを拾うために身を跼《かが》めた。チョークは球台の暗い真下の方へ転んで行ったらしい。黒子の男も何がなしに台の反対側に跼みこんで、相手の落したものを捜してやろうとした容子《ようす》だった。別の台の方で、誰かが馬鹿に大きな声で、
「ざまあ見ろ!」と笑うのが聞えた。
その時であった。この不思議な事件の持ち上ったのは。
はじめ、黒子の男の声は、ぐぐぐぐ、と云うように聞えた。言葉らしいものは何も聞えなかった。新しい撞手はすでにチョークを拾いあげて、それからもう平気な顔で自分の番を撞き出していた。その時分まで、黒子の男が球台の椽《ふち》から顔をもたげないのがちょっと妙ではあった。だが誰も、そんな賑やかな時の蔭に、五尺と離れていない台の向うで、恐ろしい事件が起きていたとは気がつかなかった。
「ちょっと。どうかしましたか?」
そう云う別の台の、跪《かが》んでいる黒子の男の身体が邪魔になる法被《はっぴ》姿の若い者の声と、
「どうぞ、こちらさん無かったのです」
そのゲーム取りの促す声とが二度聞えた。それでも返事がなかったので、それまで尻で物を言っていた別の台の法被が、先ず黒子の男をのぞき込んだ。私も不審な気がしたのでたって行って見た。ちょっとの間、室の中が何とはなしにしーんとした。
黒子の男が殺られていたのは台と台との間である。
「や、これは?」
とその法被が、パタンとキューを打ちなげて、黒子の男を後ろから抱き起した時は、もうそれは一個のむくろとなっていて、でも左の胸の、恰度心臓と覚しいあたりからは、こんこんと真赤な物が吹き出していた。
もじりの上から只一突きに、何か細身の短刀様の物でやられたらしい。素人の私にそれが解った程、その血の有様はハッキリしていた。
「位置を動かしちゃいけないいけない。誰か直ぐ交番へ。いやお君《きみ》ちゃん、君が行ってくれるのが一番いい」
四人で撞いていた方の、会社員らしいワイシャツの青年が云った。
ゲーム取りは、顔色を変えて、それでももう入口の下駄箱から、キルクの草履を取り出していた。
交番から警官の見えたのは間もなくだった。警官は入口を這入ると、先ず一わたり室の中を見渡してから、
「皆その場を動いちゃいかん」と云いながら斃《たお》れている男の側へやって来た。警官の後ろから従いて帰ったゲーム取りは、しばらく入口に立っていて、やがて静かに扉をしめると、足音に注意しいしい計算器の椅子に凭《よ》った。
警官がいろいろ問い諮《ただ》しているうちに管轄署からの一行が来た。そして正しい取調べがはじめられた。
夜――それもまだ宵の口の、何時もなら夜桜の話など出ているであろう撞球場の、入口を閉めて、警官が番に立って、そして死体を取り囲んで――それは、何かひえびえとさえする光景であった。暫くして捜査課の一行も乗り込んで来た。がここではその冗々《くだくだ》しい取り調べの様を叙述する必要はない。黒子の男は確に短刀様の兇器で殺られたものであること、年齢は三十六七歳で、懐中には大型|蟇口《がまぐち》一個、現金四十五円参銭、それから女持金指輪二個を所有していた他、身許を知るよすがともなるようなものは一切発見出来なかったこと――くらいで充分であろう。いや確かに他殺と認められたに拘わらず、その兇器が、室内隈なく、それから七人の男達の検査が厳重にされたにも拘わらず、ついに発見出来なかったことだけは書き落してはならない。
ゲーム取りの言葉によれば、黒子の男は福原《ふくはら》某と呼んで、話の様子ではこれと決った商売はないらしい。近くとのことではあるが家もどのあたりか解らない。三ヶ月ばかり前から、毎夜のようにやって来る常連のひとりだとのことであった。
七人の男が次から次へ調べられて行った。
法被の青年は洗濯屋の息子であった。この男は被害者の一番身近にいたと云うので、くどいまで当時の状況を訊ねられたが、この青年には犯人としての疑いは少なかったのか、係官の訊問は割に早く済んだ。
次には「ざまあ見ろ」と叫んだワイシャツの青年が取り調べられた。がこれは、当時被害者とは距離の上で誰よりも遠かったのと、「ざまあ見ろ」と競技に熱中した結果と云うのでやはり相当なところで訊問を打ち切られた。
三番目に取り調べられた男は、二十七八歳の商人風で、角帯に陸上競技のメダルをぶら下げていると云った風な、頭も真中からぴったりと分けていたが、これは住所氏名を問われて何か逡巡するところがあった為、人よりは余計に不必要と思われるまでを追及して訊問された。
「何分にも店が姦《やか》ましいものでございますから、途中で撞球などしていたことが解りましては……」
その男はそう云ってちょっと頭をかいた。それからゲーム取りの方をチラと盗み見た。
「何処を見る? こら!」
係官は苦笑をしのびながら叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》した。角帯の男の瞳には、その自分の権威なきみじめな様子を、想うゲーム取りに蔑んで見られはしまいかと云う馬鹿な危惧が、ありありと表われていたからである。
十七歳と云う美しいゲーム取りは、そうした感情には全然関係のないらしい、幾分は子供らしいおびえた様で警官の様子ばかりを眺めていた。
第四番目に取り調べられたのは禿頭《とうとう》の老人であった。これは商売人の隠居で、腰も低く、交番の巡査が相識の間であったから、一通りの訊問以外には何も訊かれなかった。
私には様々なことが訊ねられた。ぐぐぐぐと云う呻《うめ》きの聞えた当初から、その時の七人の位置、ゲーム中の黒子の男の言葉、態度、面識、感じ、そんなものまでが細々と訊ねられた。
憎々しい相手ではあった。己れの勝に乗って、相手の技倆《ぎりょう》まで云々するような下品な黒子の男ではあった。が死者に対する礼――そうしたものを感じた私は、特に個人的なそんな感情まで答えることはしなかった。又、この事件では、それ程の必要はなかったのである。
最後に、チョークを拾った新しい撞手が訊問された。
「いいか」と係官が云った。「この傷の深さからすると、これは兇器を手に持って直接突込んだものではない。それから方向から云うと、傷は、恰度お前がチョークを拾うためにこの台の側に跼んだその辺からやられた、そんな見当になる。ここから投げると、少し覚えのあるものなら、充分あの男を斃すことが出来るのだ。ちょっと跼んで、短刀をそこへ投げつける格好をやって見い」
係官は、この南洋土人のような色の黒い男を、特に我々にはしなかったお前[#「お前」に傍点]と云う言葉で呼んだ。そして押しつけるような声音でそう云うと、もう罪人を扱うような態度で、その新しい撞手の肩の辺を押しやって、無理矢理球台の下へ跼ましていた。
男の顔は蒼ざめていた。それから身体全体が、ぶるぶる顫《ふる》えているのが私にさえ見てとれた。
「とに角、お前は一応本署まで連行する。兇器はいったい何処へやったのだ」
係官のその言葉は鋭かった。
「貴様|白《しら》を切って解らずにいると思うか! 貴様はこの間まで曲馬団にいたではないか! 印度《いんど》人に化けて投剣とか云うのをやっていたではないか。こら! 何故殺したか、そんなことは後でよろしい。兇器はいったい何処にかくした?」
私はハッと思い当ることがあった。そうして捜査官の鋭さに一驚した。そうだそうだ、確にこの男はあの曲馬団にいた偽《にせ》の印度人に違いない。この撞球室へも今日はじめての客であった。来る早々から何か含むところがあるような態度で、私には好意は持てたが変に不審な気のする客であった。
考えて見ると、なる程あの時、若し短刀を投げたとして、一番恰好な位置にいたのはこの男である。そう云えば、チョークを拾うためとのみ見た、すうっと跼んだままで伸びて行ったこの男の右手は、問題の短刀を握っていたのではあるまいか。いやチョークを拾うにしては、そうだ、右手の高さが確に床よりはだいぶ高い空間にあった。
「知りません――」
と偽の印度人が云っていた。落付きが、黒い顔に浮んで来ていた。
「兇器なんて――どうかよくお調べになって下さい」
係官は、実にむずかしい表情をしていた。怒声が、今にも爆発するかと思うような恐ろしい顔付であった。が「いまいましい奴」と噛みしめたように男を睨んだだけで、その怒声は放たれずに済んだ。
明らかに、係官にも今一歩、つき進むことの出来ないものがあったのである。問題の兇器の行方の知れないことがそれであった。
係官の推理の跡を辿《たど》って見ると、これが他殺に間違いないから、犯人は明白以上にこの南洋の男でなければならない。そのことは私にすらが充分うなずかれた。が兇器は? この問題になるともう五里霧中だった。他に何等の手掛りもない事件であった。
窓は、夕暮のほの寒さに皆ぴったりと閉めてあった。入口は、やはりこの商売の常で磨硝子《すりガラス》の扉が閉されていた。床にもさけ目などは全然無かった。帳場の押入れまで係官の一行は調べたのである。七人の男も、ひとりとしてその間、この室から出て行ったものはないのである。そして兇器は何処にもない。
傷は、たしかに短刀様の物でやられたことを物語っている。警察医はこの点署長に向って、若し見込み違いの時は直ちに辞表を呈出する、と断言したくらいであった。
南洋の男をつれて、殺されたもじりを運んで、一行はついに警察署へ引きあげて行った。が問題の兇器の行方は、いったいどう解決するのであろうか。よし南洋の男が犯行を自白するようなことがあったとしても、致命傷を作った兇器の出現が望めない時、社会は又警察が罪人を造る――法以外の鞭《むち》によって心にもない自白をなさしめた――そう騒ぎ立てるのではあるまいか。
翌朝の新聞には、この事件が相当な標題《みだし》で報ぜられていた。謎の兇器の行方と、小標題がついていた。
……私は話好きな友とたずさえて、撞球場への路を歩いていた。昨夜の交番のところから、撞球場までは二丁とない路のりである。家と家とに囲まれて、小さな空地などが町に珍らしい春草を見せていた。家々のどの軒にも、昨夜の事件が噂《うわ》さされている心地だった。
「いや僕は、たったひとつ、その兇器をかくす方法があったと思うんだ」私が云った。「僕が警察官だったら、一番にそれを調べて見るのだったが……」
「どんな方法だい、いったい?」と話好きな、この事件にも直ぐに興味を持った友が訊いた。
「あの場合、兇器を室外に運ぶ方法があったと思うんだ。尤も、これは取調べの上でなくては確実とは云えないが」
「だって、誰も外へ出ないし、窓も扉も閉まっていたと云うじゃないか」
「だが」と私は撞球場のだんだん近くなっていることを感じながら云った。「たったひとり、あの時室外に出たものがあるんだよ」
友は、誰だ? と訊ねる代りに、ひどく驚いた表情で私を見た。
「若しその人間が兇器を持って出たとしたら、あの場合、たしかに一時的にでも係官の眼をくらますことが出来た筈だ。そして僕は、間違いなく僕の考えが当っていると思うのだが――」
「誰だい、それを持出したの
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