たのである。
「勿論あなたのことですから、危いことはないのでしょうね?」
「ああ勿論、誰だって文句をいう者はひとりもない。あったところで決して罪にはならない。まあいいお天気だから、ぶらぶら行くことにしよう」
 そして寺内氏と老人とは、服装に似合わない都市道路論などを戦わしながら、今は昼近い町の巷を、悠々と歩いて行ったのである。
「さあ、この辺でしばらくぶらぶらしていれば、そのうちに誰かが着物を持って来てくれるはずだ」
 そこは日比谷公園の、元の図書館の裏にあたる木立の中であった。老人はそう呟いて傍のベンチに腰を下ろした。
 公園もこのあたりになると、ちょっと幽邃《ゆうすい》な感じがして、遊歩の人の姿もきわめてまれである。早春のあわい日影が、それでも木の間を通して地上に細かな隈《くま》を織り出していた。寺内氏は同じく老人の横に腰を下ろして、何故このあたりをぶらぶらしていれば、そんな物好きな人が着物を持って来てくれるのかと、そのことを老人に訊ねようとした。
 と、その時である。何か慌《あわただ》しい気配が二人の背後に起こったと思うと、
「おい!」
 がさがさ! と木立から音がして、二人の目の前に不思議な人間が現われたのである。しかも、その手には抜き放たれた短刀が光って見えた。
「頼むから君の服をくれ、代わりに僕のこれを――嫌《いや》なら嫌といえ、さあ早くだ!」
 その男は株屋のどら息子といった様子をしていた。三十前後の眼尻の切れあがった、何様一くせあり気な面魂《つらだましい》である。後から誰かに追いかけられてでもいる態度で、もう一度、
「早くしろ、頼む」
 と短刀を持たない左の手で、余りの驚きに呆然《ぼうぜん》としている氏を拝むようにした。
「早く、早くしろ!」
 我にかえった氏は仕方なく服を脱いだ。一着の背広は売ってしまって、今は垢《あか》と油でよれよれになっている詰襟《つめえり》の上下を。それから形のくずれた黒の短靴を。男は氏の脱いで行く端から、その詰襟を器用に着た。そして着たかと見る間に、もう木立のかなたに駈《か》け去って行った。
 やむなく男の大島を着て、対の羽織の紐を結んだ氏は、その時何か老人の言葉に、神意とでもいったもののあることを感じたが、瞬後《しゅんご》、氏は背後から駈けつけた私服の刑事に肩先を掴《つか》まれたのである。が刑事は、くだんの男を知っていたに違いない。氏が今短刀で脅迫されたことをおどおどと話すと、
「よし、そして奴はどっちへ行った? そうか、では君は後から××署へ来い、参考人だぞ!」
 と大型の名刺を投げるようにして、くれて、そのままこれも木立のかなたへ駈《か》け去ってしまった。まことに夢のような一時だった。この出来事はしばらくの間――やがて老人が説明してくれるまで、寺内氏にはどうしても事実として信じられなかったそうである。
 服装が変わってしまった。氏は今立派な青年となった。ああなんという老人の言葉であろう、知恵であろう! 寺内氏の驚きを、老人は相変わらずはっはと笑った。そしていった。
「な、すっかり変わったじゃないか。これでも少し顔の手入れをすれば、どこへ出しても恥ずかしくない若い者だ。お祝いに昼飯はレストランにでもするかな。――その袂《たもと》には一文もないかしらん。なけりゃこの辺でちょいと拾って来てもいいんだが――」
 老人の言葉に氏は手を袂へ入れてみた。とどうであろう、蟇口こそなかったが、はだかのままの五円札が一枚、それほど皺《しわ》にもならないで出てきたではないか!
「よう、これは拾い物だな」
 驚いたのは寺内氏よりもむしろ老人といってよかった。寺内氏はただ呆然として、しばらくなすところを知らなかったのである。
「とにかくどこかで昼にしよう、金さえあればこんななりをしていたって心配はない」
 老人は先に立った。氏は後から続いた。そして近くのレストランに入って、老人は一杯のビールをさえやりながら、またまた、氏に対してどんな話をしたであろうか?

「いや、なあに都会の事情に少し通じてくれば、こんなことはわけはないんだ。俺は今朝、あの食堂で、隣りの奴等が話をしているのをちょいと耳に挟んだのだが、なんでも麹町のさる所で、一事件が起こったというんだ。つまらない盗みなんだが、いずれ奴等が話しているくらいだから、その犯人がどんな人間かは大体想像がつく。とすると、俺のように十年近くもこんな生活をしている人間には、その犯人というのがどこにどれだけかくれていて、それからどの路をどこへ逃げるということのおおよそはすぐにわかるんだ。で私服に追いかけられるならあの辺だと思ったから、まあお前さんを引っ張って行ってみた、とこういったわけさ。袂にレコが入っていたのは役得とでもいうのかな、そうだよそうだよ、奴あすぐに着物をかえてずらかろうてんだからな、なあに行く必要なんかあるものか、広い東京で二度と再びあの刑事に出合うようなことはありはしない。警察へ行けばそれこそ折角《せっかく》の着物を取りあげられてしまう」
 老人は上機嫌で、そんな風に説明した。そしてなお語をついで、
「な、これほど立派になったのだから、ここを出たらついでに床屋へ寄って、顔を奇麗にしてくるがいい。そしたら俺が、もっともっと面白いことを教えてやるぞ。決して罪じゃないんだからな。そしてこん度のは、うまくゆけば相当な金になろうもしれぬ。いいや金でなんか買えぬいいことがあるかもしれぬ。お前さんは人間がしっかりしているから、ひょっとすりゃ、それでまた世の中へ帰れるかもしれないや。ま、そのことはそれでいい、とにかく早く顔を当たって来ることだ。俺は公園で猿とでも遊んでいるからな」
 老人のいう、つぎのいいことは何であろう? 寺内氏は、朝からの、いや昨夜からの経験で、もう絶対に老人を信じていた。そしてこの愉快な生活に、今はほとんどの同意をさえもつようになっていたのである。
 氏は付近の床屋で快い鋏《はさみ》の音を耳近くききながら、老人のつぎの『いいこと』を考えていた。
 ――自分は寝た。そして食った、着た。そのうえにいいこととは何であろう? 金か、いや老人は金以上のものがといったのである。金以上のものといえば――おお女、老人は自分にひとりの恋人を与えようというのではあるまいか?
 寺内氏は浮き浮きとした気持になって床屋を出、老人の待っていよう公園へ引っ返して行った。

「いいかい、この町には名前がないんだからな、こんな町は参謀本部の地図にだってありはしない。よく聞いていて間違わないようにしなければ――」
 老人はそう前置きをして、さてつぎの『いいこと』のある場所を教えるべく、公園の一箇所の、なめらかな土の上に、石でもって面白い線を引きはじめたのである。
「ここが三越だ、いいかい、そしてここが駅、この三越と駅にこう線をひいて、このところから直角に、こうしばらく行くと白いポストのある煙草屋の前に出る。うん、ペンキがはげて白くなっているんだ。この煙草屋の右に路地があるからな、この路地をこう行くと、右側の家を数えて、一軒二軒三軒四軒目のところで路がこう二つに分かれている。これを左に行っちゃいけない。これからは一本路だから、これを右へ右へと行く。すると十四、五分歩いたところで黒い板塀につき当たるから、かまわずその板塀を向こうへ押し開けばいい。いいな。するとこんな恰好《かっこう》のせまい静かな通りへ出るから、いいかい、いよいよこの通りへ出たら、できるだけ静かに、口笛を吹いてこちらからこちらへゆっくり歩くんだ。うんそれだけでいい。そうやっていればきっといいことが起こる。決してびくびくしちゃいけない。どこまでも元気に、そしてどこまでも太っ腹で――まあとにかく行ってみるんだな。何もなかったらまた浅草へ帰って来るさ。俺はたいていあの時間にはあのベンチに行っているからな」
 老人のいう言葉には何か力といったものが感じられた。その結果がいかなるものとも予想さえつかなかったが、なおしばらく右の冒険について老人と問答を交した末、寺内氏は勇敢にもその地図にない町をさして行くことに決心したのだった。
 日は長くなったとはいえ、都会の夕暮は公園のベンチへも間もなく来た。まだ五時にはいくらかの間があったであろうが、夕刊の鈴はやかましくひびき、家々の軒には郷愁を呼ぶような冷たい電燈が輝きそめた。
 老人と別れた氏は、不思議な興味に胸をおどらせながら、示された三越と駅のあの線から、ポストの煙草屋、それから一軒二軒三軒といわれたところの、疑問の町を訪ねたのである。
 煙草屋の路地を入ったあたりは、まだそこここの家裏と変わった感じでもなかったが、それが一歩、四軒目の家の角を曲がると、東京の、しかも繁華なこの一角に、こんな奇妙な路地があったかと驚くばかり、その路地はゆれゆれと折れ曲がって、しかも左右のどの家もが、皆黒い板塀にかこまれて、その路地へ対しては、一軒として便所の口さえも開いてはいないのである。まことに世をすねた好事家《こうずか》が、ひそかに暇潰《ひまつぶ》しにこしらえたとも呼びたい、それはなんの意義をも持たぬかに見える全くの袋小路であった。
 行くことわずかにして、いわれた通りの板塀に突き当たった。氏は押してみた。そして驚くべきことには、そこにまた、かの老人のいった如くに、そこにはいとも物静かな、格子のあるしもた屋の一番地が、ひっそりと氏の前にひらけたのである。氏は思い切って静かに口笛を吹いた。そのやわらかな音律《リズム》は、人ひとりいるとも見えぬその家々の軒を、格子を、ノックするように流れていった。

 私はここで、それから氏に起った一つの事件を語るのを好まない。が、ここまで書いてきた順序として、その一軒で、氏がひとりの婦人と交渉を持った大体をいおう。
 東京のまっただ中に、そんな限られた海へ出る人の一町《ひとまち》があるのだとは私も信じ得ないが、そこは要するに留守を守る女ばかりの一|区劃《くかく》であって、氏が誘われた一軒は正にそうした長い間不自由の苦しさを感じているひとの住居だったのである。氏が誰の案内もなくそこへ行ったことは、ことに相手のひとに喜ばれて、氏は実に一週間という驚くべき毎日を、その相手のひとと面白くなやましくすべてを忘れて明け暮した。氏がすべてを忘れたという点には、もっと説明が必要であろうが、男女の間の微妙な関係は、読者がよりよく理解してくださるはずである。
 氏はそうして暮しているうち、相手のひとのはなはだ美しいこと――この美しさは彼女の聡明、教養、気品といったものを含んでいる――を知った。そしてやがては単なる興味を越えて、氏はかつて覚えなかった恋心を、その美代子《みよこ》――なるひとに感じはじめたのである。
 従ってそのいい難い一週間が終わって、最早《もはや》それ以上とどまることの不可能になった時、氏がどんなにその別れをはかないものに思ったことか!
「ひと月たてばまた会えますわ、だって仕方のないことですもの、ひと月たったらいらっしてね」
 相手のひとの瞳に、何か濡れたものが光ったと寺内氏はいった。
 そんな風にして、この奇怪な一週間は終わったのであるが、彼女の家を辞して再び氏が町の人となった時、もう氏は以前の一文なしではなかった。それが罪であるか男らしくないことであるかは知らぬ、とにかく寺内氏は充分ふた月は生活できる金をふところにしたのである。
 が、この物語はこれで終わったのではない。小さな事件とはいえ、そうして寺内氏が彼女のもとを辞して久し振りに往来へ出た時、危く氏を轢《ひ》き殺そうとした自動車のあったことを記しておかなければならぬ。その自動車は、まるで氏の命を狙うかのように、氏が右へ避ければ右へ、左へかわせば左に向かって、五分に近い間、電車通りの真ん中を、右に左に氏を追ったのである。が、不思議に――正に不思議にである――氏はその難から逃れることができ、やがて氏にはつつましいながら新しい生活が始まったのであるが、ひと月たって思いかねた氏がその不思議な町へ行って見
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
橋本 五郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング